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2018.09.03The Shakespeare Festival

2018年度シェイクスピア祭報告

トーク「シェイクスピアの史劇・人間史を俯瞰する」 講師:  鵜山 仁氏(文学座演出家) 聞き手: 冬木 ひろみ氏(早稲田大学文学部) 講演「意味を通じさせること ― 本文編纂者のシェイクスピア」 講師:金子 雄司氏(中央大学名誉教授)

トーク「シェイクスピアの史劇・人間史を俯瞰する」(抄録)

(講師)鵜山 仁氏(文学座演出家) (聞き手)冬木 ひろみ氏(早稲田大学文学部) <文中の敬称略> 冬木: 文学座の演出家・鵜山さんはシェイクスピアを含む100本以上の舞台を演出され、多くの演劇賞も受賞なさっておいでです。テキストの読み込みが見事で、知的な舞台が多いのですが、シェイクスピアに関してはいつ頃から興味を持っておいででしたか? 鵜山: 中学の頃に「新劇」という雑誌があり、芥川比呂志さんのハムレットの舞台写真が出ていて、こういう世界に入ってゆけたらいいなあとなんとなく思いつつ机の前に貼っていた、それが最初だと思います。福田恆存訳で割と真面目に読んでいたのですが、慶應大学の仏文だったのですが、教養の2年の時に小田島雄志先生からシェイクスピアを教えて頂きました。小田島先生はシェイクスピアの言葉を現代日本語に解放してくれたのだと思います。当時は渋谷のジャンジャンで小田島先生の新訳を次々とシェイクスピア ・シアターが上演していってくれる新鮮な時代で、しかも千円で見られたことも大きかった。ジャンジャンで毎月見ていたので、体の中に少しずつシェイクスピアが入ってきたのだと思います。だから僕のシェイクスピア像の半分は小田島雄志先生の顔が入ってきている気がするし、何というか、小田島遺伝子が脈々と流れていると思います。  演出家として『十二夜』は何度も何度もやっているのですが、「女たちの十二夜」もやりましたし、リアはエドワード・ボンドの翻案ものとして、30歳くらいの若い頃に文学座のアトリエでやって、その後新国立劇場で1997年ですが、山崎努さんのリア王を初めてやりました。3年前ですが、文学座のアトリエで江守徹さん主演で『リア王』をまたやったのですが、他の『ハムレット』『オセロー』『ロミオとジュリエット』などの有名どころはあまり経験がなく、むしろ問題劇と呼ばれるものに興味があります。色々な面で問題が多いのでハードルは高いのですが、『尺には尺を』や『トロイラスとクレシダ』もやりました。その間に、5年前に新国立で『ヘンリー六世』3部作をやって、3部やるとご存知の通り、1日がかりなのですが、そういう生活をして劇場に色濃く流れるような時間を過ごして、病みつきになりました。ただ、新国立劇場の中劇場は開かれた空間なのですが、開かれすぎていて音響効果が極めて悪く、なかなか使いにくいところがあります。客席でセリフが聞こえる、聞こえないは大変複雑な問題でありまして、大きな声を出しっぱなしだとメリハリがなくなってくるし、時間軸に沿って聞いてゆくとまるでお経を聞いているような感じになってきてしまう。だから、感情の変化を駆使しながらというのがセリフを聞こえさせるためには必須になってくるわけです。これはシェイクスピアのセリフにも当然言えることなのですが、どこに向かって喋っているのか、客席に向かってなのか、神様なのか、それとも自分の心のうちの、自分であって自分でないものと対話しているのか、そういう相手役とのキャッチボールをする、共有するということがないと、お客さんには伝わりにくいことになります。つまりなんらかのリアクションがしゃべっている人のセリフを立体化する、しゃべっている人の言葉ではなく、舞台上で聞いている人のリアクションを通じて芝居を見るということがあるような気がします。いま稽古中の『ヘンリー五世』でセントクリスピンのスピーチがありますが、ヘンリー五世が「明日死ぬかもしれないが、今日のことは一生みんなの心に残るだろう」というと、それを聞いている将兵たちの一人一人のリアクションは十人十色であって、そういう複雑な音色で伴奏された主旋律がどういう響き・音色を奏でるのかということも全体として考えないとシェイクスピアのセリフは成立しないと僕なんかは考えます。稽古場で十人相手にしていて、その中でしゃべっているのがヘンリー五世だけだとすると、他の九人が九様にそれぞれ参加してくれているセリフっていうのが成立して初めて舞台が活性化するし、面白くなるし、それで舞台の色っていうのが決まってくるのです。そのセリフを聞いている他の九人のそれぞれが退屈しないように、それぞれにとって発見があるようなセリフを作ってゆく、そのセリフの音を、声を表情を作ってゆくということが最終的に目的となるし、それがないとシェイクスピアのセリフは成立しないのではないか、そこが演出の付け入る余地だと思っています。 冬木: ほとんどこれから話して頂くべき核心を話して頂いた感があります。ところで、現代演劇とシェイクスピアとの演出の違いはあるでしょうか? 鵜山: 他の劇とシェイクスピアの違いは、『ヘンリー六世』の場合で言えば、カットして短くする、再構成するということをやらなければいけなくて、これは今の演劇としては無駄なところがあるのではないかと思うところを独断でカットしてしまって後から批評されたりもあるのですが、話の流れがうまくゆかないだろうから場面を入れ変えたりも稀にある。また、コンセプトという言い方をしていますが、例えば『トロイラスとクレシダ』の場合はトロイとギリシャ軍の戦いなのですが、多国籍軍的にいろんな迷彩服でトロイ側とギリシャ側を作っちゃおうというのもあります。『ヘンリー六世』の場合はアプローチの仕方がよくわからなかったので、これは行ってしまえというので、英仏の取材旅行に出かけまして、舞台装置家と演劇部の方と女房と四人で戦跡めぐりのようなことをしました。チュークスベリーという、ヘンリー六世の息子エドワードが殺された場所へも行ったのですが、今何にも残っていなくて、ヨーク公が首を切られたのはどこでしょうかと言っても誰も知らないのです。石垣などの小さな跡はあるのですが、どこでも戦場になるんだという一般的な感想で帰ってきました。古戦場は野原ですので、あくまで人間が作る戦闘なんだということです。日本へ帰ってきてから、広い複雑な曲線を描いた奥行きのある新国立劇場の舞台にスロープのようなものができて、この板の上で合戦をやることを思う時、あの時の空気感が役に立ってきていることを感じますし、それが一つのアプローチになっているところがあります。  他に日本の現代演劇と異なるところは、時代を超えて共通の過去を共有できるところとできないところがあって、それをどう引き受けるかですね。やっていると不思議なもので、長くやっているような芝居、例えば『ヘンリー六世』をやっている時などは、山手線に乗っていると、乗っている人たちがみんな王侯貴族に見えてきたりするんです。少なくともヘンリーだったり、グロスターだったり、それをやる役者の横顔を通して、電車に乗っている人たちの顔と繋がってくるという恐ろしいことが起こる。ウェイクフィールドの戦いだったり聖クリスピンの日の戦いだったりは会社でも、劇場でもやっていますよね。冗談ではなくそれを実感できるという面白さがある。そこが、時代を超えて言葉の壁を超えてそういう世界にアプローチする、触れ合う醍醐味なんだと思います。自分とは違う世界なんだけれど、こことは通じているという感覚に浸るということができた時の喜びというのは大きいものがある。1足す1はなかなか2にならない、10になったり、100になったり、時にはマイナスになったりするような出会いの意外な面白さというのがあって、そこに対して妙に身構えないでいるのがいいのだろうと思います。シェイクスピアの時代のグローブ座では舞台装置もたいしてなかっただろうけれど、どこの空間に飛んでも、どの時間に飛んでもおかしくないような、そういう想像力の働きのことを、『ヘンリー五世』の中では説明役が言っている。時々、僕はデンマークの王子ハムレットだと言うんですけれど、それを疑う人はあんまりいない。一応そういうフィクションで始まった約束事で見てゆきましょうという合意を取り付けているので、もし私がハムレットであったなら、ということを日本人の僕を通じて日本人のお客様が受け取ってくれるという暗黙の了解ができていて、その中でやや違和感を感じながらも動かしてゆくという不思議な時間が醸成されてゆくのだと思います。そのリスクは大きいけれど喜びも大きい、そのあたりが現代劇とは自由度が違うのだと思います。 冬木: シェイクスピアには確かにそうした柔軟性が重要だと思いますし、現代化ということで言えば、先ほどおっしゃったように、設定は全然違うのだけれど心理的にはリアリズムだということがあると思います。ところで、鵜山さんがAだと言うと、ある役者がBだと言う時、答えはCだということを伺ったことがありますが、そのことについて、もう少し具体的にお話頂けますか? 鵜山: 現場的には、演出っていうのは大抵一人で、役者は多いですので、多勢に無勢なんですね。そういうところで凌いでゆくというのが人生なんですけれど、先ほど申し上げたように出会う、キャッチボールするというのも、新しいことを発見してゆくプロセスだと思うんです。こういう音でくればこういう音で返す、となれば当然気分も違うわけですし、立体的に作られる関係そのものからそれぞれのセリフを誘って正してゆくということがあるのだと思うのですが、少なくともそういうキャッチボールを大事にしないと複数でやっている意味がない。舞台装置などにしても、朝倉摂さんという舞台装置を作る方がおいでなのですが、舞台装置は発注芸術だからということをおっしゃっていて、どういうことかというと、舞台装置の絵を描いて終わりじゃなくて、それを大道具会社に出して、向こうが作ってきたものに対して、ぎょっとするようなものが出来上がってくることも多々あるんですが、その辺にどう働きかけるか、そういうキャッチボールができるかが重要なんですね。集団創作ってそういうものですが、予想外の展開がないと面白くならないので、演出家として自分がAだと思っていて、相手がBだということになったら、じゃあCで行きましょうかということになる。例えば、Aだと言う役者とBだと言う別の役者がいて、AとBがぶつかって二進も三進もゆかなくなる稽古場があるんですが、そういう時は3人目の俳優に、それまで座っていた俳優に立ってもらうと解決する場合がある。舞台稽古に詰まっちゃったときに、ここをどう考えればいいのかだとか、ここはちょっとくつろげるんじゃないか、世界がそこに広がってゆくんじゃないかということを、芝居を作ってゆく上で一般的に大事なことをシェイクスピアが書いている気がします。  最近、to be, or not to beとか、きれいは汚い、fair とfoulだとか、そういう対比のようなことを改めてすごく思うようになってきました。to beかnot to beかどちらを取るかということを瞬間的にはやって行かなければならないかもしれないんですけれど、どう考えてもto beとnot to beの間に人生があるってことですよね。この辺を行き来するというか、その辺で逡巡するというか、その辺で何か壁にぶつかるということ自体が人生の面白さだという気がするし、きれいは汚い、汚いはきれいということなんだけれど、どっちかしかなかったら人生は面白くない、つまり死ぬことがなかったら生きがいなんてあり得ないですもんね。だから、死を前提にしないと生きていることにはならない、ということが見事に書いてある。他にも一杯ありますよね、shadowとsubstanceとか、そういう二項対立命題みたいなものがあるんですけれど、河合先生のことを引いて恐縮なんですけれど、河合先生は本の中で、shadowというのは客観的事実で、substanceというのは主観的真実だと書いていらして、なるほどなと思うんですけれど、両方ないとやってゆけないし、理想と現実とか、恋愛と不和、戦争と平和とか、相対化しずらいものもありますが、その葛藤をどう解決するかは、ギリシャ悲劇以来、2500年来解決は一つもなされていなくて、むしろその葛藤を豊かに楽しむという方法については多少我々賢くなったかもしれない。そういうAとBの対立をどう生きるかということに関しては、Cという答えは、何かそうやって新しく展開してゆくものとして、問題を抱えてリニューアルしてゆくものとして、セリフのことを考えるとか、表情を考えるとか、人生を考えるとか、そういうことがあるというのがシェイクスピアの醍醐味だったり、我々生きてゆくことの醍醐味だったりするんじゃないかと思ったりしています。 冬木: ありがとうございます。本質的なことをおっしゃっていただいたと思います。シェイクスピア劇というのはすべての劇で葛藤があって、どちらかに決められないということがある。一人の人物がこういったかと思うと違う人物が否定的ことを言っていたりということがあって、相対的というか、視点が多数あったりして、この劇はこういうものだということがいえないし、価値観が異なっていてそのあたりが難しいのですが、逆に自由度があって、演出しがいがあるのかなと思ったりします。ここで、先ほど言っていらした『トロイラスとクレシダ』の演出のスタイルをちょっとご覧頂きたいと思います。 <『トロイラスとクレシダ』の映像を見ながら> 鵜山: ここでは生演奏を使っているんですが、プレーヤーとコラボレーションできるところがほしかったのと、コミュニケーションできるプレーヤーだったこともあります。それから小林勝也さんですが、変なジャケットを着てまるでどこの人だかわからない、誰かわからないというような、我々の世界と西洋世界の衝突といった形で表してみたらということでこのようになっています。概してトロイ側はどっちかというとこうした服装をしているんですけれど、ギリシャ側はいわば多国籍軍というのでやってみたんです。また、アガメムノンが自分でダイレクターズチェアを持ってきたりするんですけれど、こういういたずらもシェイクスピアは許容しているんじゃないかと思うんですよね。そもそもこの時代設定をどこにするか、それはヤクザものだってあり得るし、実際エイジャックスはご覧のとおり刺青かなんかしているわけです。  『ヘンリー六世』などをやってゆくと、やっている方のわがままもあるんですけれど、だんだん普通にやっているのも疲れてきて、2部ではかなり荒々しいことになったり、3部ではかなりポップなことになったりということが現場の生理としては起きることがあります。『ヘンリー六世』3部作では結構おとなしめにやってたんですが、この間やった『ヘンリー四世』ではクイーンの曲を多用したりして、ハルがこうしてヘッドホンで聴いているのはクイーンの曲だってことにしちゃったんです。賛否両論はありましたけれど。ただ、連作をやってゆく中でだんだんラディカルになってゆくというか、見ている方でもそういう欲求っていうのは出てくるだろうし、作っている方でもそういう変化してゆく面白さというのはあって、どうしてもやってこなかったスタイルへ変化してゆくとか、考え方自体が変化してゆくということがあったりします。 冬木: ありがとうございます。『トロイラスとクレシダ』というのは、どうしても欺瞞に満ちているというか、心地よくは思われない劇だと思うのですが、この劇を見ていると、セリフが今のこととして響いてくるものが非常にありますよね。ただ、『トロイラスとクレシダ』という劇の中にそうしたものがあるんじゃなくて、戦争、恋愛や性的なものの駆け引きといったものが同じレベルで語られているという意味では、現代世界の今を見ているような気がしてきます。  それでは、これから歴史劇の方を俯瞰して頂くという方へ参りたいと思うのですが、先ほどちょっと言っていらした古戦場跡をたどる時に、妙な因縁を様々に引き連れて帰ってきましたということを書いていらしたのですが、そのような因縁は何かありましたでしょうか? 鵜山: そうですね、イギリスの旅の最後の方で、セント・オールバンスの郊外へ行ったんですけれど、たまたまそこの古戦場、市街戦の古戦場ですが、僕が結婚式を挙げたのが神谷町のセント・オールバンス教会なんです。最終的にセント・オールバンスへ行って大聖堂へ入ったら、そこでミサをやっていて、そこで使われていた曲が「戦争ミサ曲」で、カール・ジェンキンスという作曲家の曲だったんです。違和感はあったんですけれど、よくよく聞いているうちに今と繋がるところがあって、15世紀くらいの民謡をモチーフにした合唱曲なのだそうですが、結局それをモチーフとして『ヘンリー六世』で使うようになったんです。それから『ヘンリー六世』の時からリチャード三世を岡本健一君がやっていたんですけれど、その登場の時に「オーヴァー・ザ・レインボウ」の曲を使ったのですが、使ってしまったせいで著作権の縛りがものすごくできて、今は新国立劇場の『ヘンリー六世』の映像資料があんまり使えなくなってしまいましたため、あとで本当にちらっとしかお見せできないんです。どちらにしろ、そのセント・オールバンス教会で聞いた音楽が結局は、百年戦争か何かの時代に源を持つ音楽だった、それを新国立劇場で使うことになってしまった、そういう因縁もあります。 冬木: そうでしたか。何かプライヴェートとパブリックの両方がつながったようなお話を伺いました。ちなみに鵜山さんは慶応大学の合唱クラブご出身だけあって音楽にすごく詳しくていらして、いろいろなところで様々な音楽を使っていらっしゃるのですが、ここぞという時に非常に効果的な音楽を使われると思います。ではここで、歴史劇の映像をご覧頂きたいと思います。 <新国立劇場の歴史劇プロモーション映像から>  それでは、これから歴史劇のことを個別に伺ってゆきたいと思います。以前鵜山さんにお話を伺った時に、人類の歴史を見るというか、その記憶を辿る、あるいは遺伝子を古代から辿ってゆくことがシェイクスピアを通して見えてくるというようなことをおっしゃっていらしたのですが、そうしますと、歴史劇はまさに鵜山さんの思っていらっしゃるシェイクスピアに一番近いのかなという気がいたします。 鵜山: そうですね、3部作なんかやっていますとずーっと朝から晩まで劇場にいて、公演が始まっちゃうとお客さんとずっと一緒にいるわけですから、日常がむしろ薔薇戦争色に見えてくるんですね。3本やっていると百五十年くらい生きたという感じがしてくるんですけれど、もちろんそれは作っている方の妄想には違いないのですが、芝居の効用とはひょっとするとそういうことではないかと思います。よく言うんですけれど、芝居はライブなんですね。一晩限りで消えてしまうものですし、その時間というのは誰も担保してくれないものですけれど、実はライブというのが今一番長続きする表現なんじゃないかなと思っているところがあるんです。というのも最近、ハードディスクでも意外と持ちが悪いとか、CD、DVDも10年20年で劣化するとか、クラウドも雲をつかむような話ですが、そもそも電気がなくなったら情報は全く頼りにならなくなってしまうわけですし、いくら情報を掻き集めても、撮り溜めしているだけで見ないってことにもなっちゃうわけですよね。紙に墨で書かれた文字の方が、保存状態さえ良ければずっと長持ちするだろうし、ライブの感動っていうのはもっと長持ちするのではないかと一応思って芝居を作っているんです。忘れちゃうところもたくさんあるかもしれないんですけれど、劇場での空気感というものは、たぶん遺伝子に善かれ悪しかれ影響を及ぼす、そのエコーというのが何千年、何万年を生き続けてきて、そのおかげで魚が人間になったというような話をしてしまうんです。お魚が人間になってよかったのか悪かったのかはわからないんですけれど。いずれにしろそうした変化を通ってきて、それで例えばシェイクスピアがいたおかげで戦争は多くなったのか少なくなったのか、という解決不能の問いかけを自分でしたりするんですけれど、恐らくはコミュニケーションの可能性は広がったと理解しないと芝居をやっている甲斐がないといったところがあるし、舞台の上での出来事っていうのは、戦争にしろ、人殺しにしろ、不倫にしろ何にしろ、日常生活の価値観は裁かれないというか、日常生活では許されないことが舞台では許されるという風なキャパシティを持っているわけです。それってどういうことかというと、やはり日常生活でそういうことを見せようとするというか、別の形で解消する。例えばスポーツと言っていいのかもしれないのですが、戦いのシミュレーションのようなことがスポーツにはあって、スポーツでナショナルチームみたいなものができて、韓国を倒せとか言ってる限りはまだ大丈夫なんですけれど、小さい鉄砲持って、トンカチ持ってやり始めるとこれは取り返しのつかないことになる。きれいは汚いを内包する人間が、そこをできるだけ想像的にプラスのイメージに押してゆくためのワクチン効果というものをアートは持っているんじゃないかなと考えてやっているということがあります。今稽古の真っ最中なんですが、最初『ヘンリー五世』という芝居を、国威高揚劇、正義高揚劇のような形でためらわずにやってしまおうかと思っていました。映画でいうとオリヴィエがやったのがそうですが、ところがいくらそういう風にやっていっても話が繋がらないところがあって、最初は強大な教会の利権を満足させるために、フランスに打って出た方がいい、そのためにお金を出そうという司教たちの会話から始まっているんですけれど、そのフランスに出て行く大義名分はというと、女系が相続していいというサリカ法に関する政治的なもので、まあ侵略戦争劇ですね。アイルランドもスコットランドもウェールズもみな一つになって戦うという国家的な目標を持ってフランスに打って出るんですけれど、始まっちゃった戦は消耗戦につぐ消耗戦で、何のために一体こんなことを始めてしまったのかわからない。対するフランスの方もまたバラバラで、大義名分なんかどこへ行ったのかわからないっていう戦を延々とやった挙句、イギリスは勝つには勝つんです。ですが『ヘンリー五世』の説明役が芝居の最後ですでに言っていますけれど、シェイクスピアが10年くらい前に上演した『ヘンリー六世』で書いているように、血で血を洗うっていう結末に至って、結局はフランスから撤退しなきゃならない、なんだかよくわからない結末に至っている。要するに、大義っていうのは一人の価値観じゃない、それは共時的にもそうですし、歴史的にも長い時間通じて、一人の人生の価値観ということと、何世代にも渡る価値観というものは全く違っているという感じがするんです。ですので、その矛盾する価値観みたいなもの、個と国家とかをどう折り合わせるかという、to be, or not to beなんですが、その揺れを書いた作品として読んでゆかないと舞台が動かないという感じがすごくしていて、今どう揺らせばいいんだっていうところでちょっと悩んでいるんです。結局、これは厭世劇とも言えないし、国威高揚劇とも言えないし、例えばその間でゆきつ戻りつする人間とか社会とか国家とかのあり方をものすごくリアルに描いてしまったんじゃないかという思いがしています。この劇は『ヘンリー六世』の時に比べるとかなり複雑になってきたというか、大人になってきたというか、ハル王子がヘンリー五世になるように、大人になるってことはどうやら後ろめたいことをしてきたってことらしいんです。けれど、若い頃とは別の価値観にたどり着くプロセスとか、現実をどういう風に歩いてゆくか、理想と現実の葛藤だとか、そういうことについて色々と大人の含蓄というのを含んだ、なんだか結構厄介な、そういう意味で面白い芝居なんじゃないかと思います。 冬木: 確かにシェイクスピアは『ヘンリー六世』3部作から書き始めて、その後『リチャード二世』『ヘンリー四世』『ヘンリー五世』というように書いているので、ちょうど逆転して書いていることになります。今鵜山さんがおっしゃったように、『ヘンリー六世』って権力闘争のダイナミズムのようなものがありますが、『ヘンリー四世』は他の史劇と違ってハルとフォールスタッフの喜劇的場面が挿入されてくるある種バランスをとった劇だと思います。『ヘンリー五世』の解釈は確かに色々あると思いますが、鵜山さんのおっしゃる通り、イギリス万歳に近いところはあるのですが、よく見ると価値観の相対化というところがやはりある。フォールスタッフが死んだ際にニムが、王様があの騎士に悪い気分を浴びせたんだ、王がフォールスタッフを殺したんだというようなことを言うところもあります。つまり『ヘンリー四世』の最後で王となったハルがフォールスタッフを追放したことの咎のようなことが『ヘンリー五世』にも暗示されてきますし、ヘンリー四世がリチャード二世から王冠を奪い取るわけですが、それの罪の意識のようなものが『ヘンリー四世』にも大きくあって、その贖罪の意識がやはりやはり五世にも来ていて、やはり先ほどおっしゃったような後ろ暗い思いを抱え込んで、でも正面から戦いをするという形の劇になっていると思われます。ですので、表面的には国威高揚の劇に見えるのですが、よく見るとそうでもない様々なものを抱え込んでいるという実に巧みな劇ではないかと思います。その点で、これから舞台の『ヘンリー五世』がどのように立ち上がってゆくのかが非常に楽しみです。今回のキャストも多くは『ヘンリー六世』から引き継いでおられますよね? 鵜山: ヘンリー四世をやってた中嶋しゅうさんがこのあいだ亡くなられたとか、いろんなことがありましたし、まあ途中で抜けられる方もいますが、多くは仲間意識ができていますよね。『ヘンリー五世』の場合は、それ以外に説明役という役が出てきて、中で起こっていることを相対化する役割になるのですが、本当に我々に言っていた言葉通りのことがここで起こっているんでしょうか、とどうしても裏読みしたくなる。「華々しく凱旋いたしました」と言ってるんだけれど、その裏には何があったのかとついつい思ってしまいます。少なくともヘンリー五世がフランスへ遠征した過去の歴史というのを彼は知っているし、我々も知っているわけで、それが三重写しになっているわけです。この説明役はイギリスでは割と名優がやることが多いのですが、今回の舞台では何人かの俳優に分け持ってもらっています。実は『ヘンリー四世』の時にも「噂」という役を複数の俳優でやったのですが、その人たちが物事を見ているんですけれど、その見方は登場人物とはやや違うんです。重層化というか、必ずしもややこしくしようというのではなく、その方がむしろ我々にとってわかりやすかろうということであり、通訳というか、橋渡しのようなポジションをおいた方が、我々が『ヘンリー五世』の物語を見る時に好都合なのではないか、そんなことを考えています。 冬木: 時間もなくなって来ましたので、最後にもう少しだけ鵜山さんの演出の歴史劇でここがおもしろかったという点を伺ってみたいと思います。これは以前別の対談でも触れていらしたですし、劇評でも取り上げられたことですが、『ヘンリー六世』の第3部で、王が庶民の嘆きを聞くというところがありまして、戦争でお互いに顔を隠していたのでわからないために、父を殺してしまった息子と息子を殺してしまった父がそれぞれ嘆くという悲惨な場に、ヘンリーが上から椅子に乗ったまま降りてくるところがあります。最初この演出を見た時に若干の違和感があったのは、上からというとどうも神の視点のように思えるのではないかということでした。ですが、降りて来るその場面を考えると、全体を上から見て王の視点で俯瞰するということなのだとわかってきて、後から感激したことがありました。あれは装置的にも大変だったように伺いましたが、こうした演出は最初からコンセプトとして浮かばれたことだったのでしょうか? 鵜山: あれは別々の息子と父親の嘆きを俯瞰するという場面ですが、作った時はそういう意識はなかったのですが、遡ぼるとやや関係のあることがシェイクスピアの観劇体験にはあるので、それをお話しするとわかりやすいのではないかと思います。1983年に文化庁の派遣でパリに行ったのですが、そこで最初に見たのがオデオン座で、ジョルジュ・ストレーレルの『テンペスト』、正確には『テンペスタ』だったんです。なぜ『テンペスタ』をやったのかというと、「フランス・ヨーロッパ圏の演劇のこれから」といった企画の中で、そのこけら落としがミラノのピッコロ・テアトロによる『テンペスタ』だったんですね。イギリス人のシェイクスピアが書いたヨーロッパ終焉についての芝居を、イタリアの劇団がイタリア語でパリでやっているという大変に汎ヨーロッパ的な舞台だったわけです。そもそも『テンペスト』はミラノ公が離島に流れ着いたという話から始まっていますが、それを実際に現地キャストでやっているという感じがありまして、アレルッキーノも出てきますし、コメディア・デ・ラルテの仕掛けもあったりして面白かったですけれど、その中でどうやらエアリエルとキャリバンは離島の原住民のようになっていて、そこへヨーロッパが侵略してきて、そこで行きどころがなくなっちゃった人たちという設定になっていました。そのエアリエルはプロスペローの手下なんですけれど、それが最初からワイヤーでつられていて、ジョーゼットのような白い衣装を着て、自由自在に飛びまわれるんです。本当にふわふわと自由に飛び回っているんですが、最後に解放される時にはワイヤーを外されるんです。すると解放される時は歩いて退場しなければならないわけです。実に見事な演出だったのですけれど、自由に見える時はつながれているんですが、実際に自由になる時は歩いてゆかなければならない。  だから今『ヘンリー六世』のことを思い返してみると、中空につられている王様というのは確かに神の視点ではあるんですけれど、閉じ込められているという、そういうことがあるんじゃないですかね。彼も新国立劇場の高いところから、7、8メートルはあったかなあ、そこから降りてきて、最後は地面に足をつけるのですけれど、そのドラマみたいなことも表現したかったのかなと思います。それを意識したわけではないのですが、そういうことをシェイクスピアも書いているんじゃないですかね。その『テンペスト』の舞台の記憶みたいなものがあって、だからというわけではないのですが、原文と違った考え方っていうのもあるんじゃないかと思うのです。 冬木: ありがとうございます。これも記憶のつながりということでしょうか。すごくいい作品にはそうした素晴らしい記憶がふっとどこかで現れてくるのかなと思います。もう一つ最後に伺いたいのが『リチャード三世』なのですが、最後のところで、リチャードも死んだ後で、上のスクリーンにおもちゃの木馬が映し出されますよね。さらに驚くことにリチャードが普通の体ですっくと立って木馬に向かってスタスタと歩いて行くというところがあります。この演出は見事だったのですが、リチャードは劇中で母親にも疎まれ、お前など生まれなければよかったということすら言われる、そういう母親の愛への渇望や、幼い頃への憧憬といったリチャードの思いを鵜山さんが引き出していらしたと考えてよろしいのでしょうか? 鵜山: そう取っていただければありがたいという話でして、全くその通りです。「オーヴァー・ザ・レインボー」は『ヘンリー六世』で使ったんですけれど、その辺からリチャード三世への共感が僕の中にあったのかどうかはわからないですが、見果てぬ夢を見ているキャラクターなんじゃないかなという気がします。それが最後に完結する時には、俺の馬を、という時に、中空に子供の馬があって、胎内回帰じゃないですけれど、まっすぐそこに帰って行く時にシューマンの「子供の情景」を使ったんです。リチャードの時は、シューマンをはじめとして色々ロマン派の曲を使ったもので、作曲家からもこんな妙な曲をたくさん使ったのは初めてだと言われて、リチャード三世じゃなくてリチャードアルカリ性(世)と言われたりしました。解釈といえば解釈ですが、そんなことやっていいのかなと思いつつ、どこか落とし所がないと終わらないだろうと思っていたので、それが甘いと言われる方もいらっしゃるとは思いますが、そんなことです。 冬木: わかりました。確かに劇評家はいろいろなことを言ったりするので、そこが一番問題かもしれませんが、本当に舞台は観客に様々な概念の解釈を与えてくれたり膨らませてくれたりしますので、これからの演出を楽しみにさせて頂きたいと思います。もっともっと伺いたいと思うのですが、時間がきてしまいましたので、この辺で終了とさせて頂きます。本日は、ありがとうございました。

シェイクスピア祭 講演(全文) 意味を通じさせること――本文編纂者のシェイクスピア(全文)

金子 雄司氏(中央大学名誉教授)  先ず訂正から始めます。宣伝用のポスターに「「シェイクスピア産業」と称されてから約1世紀」と書きました。しかしながら、これは私の思い違いでありまして、The Oxford English Dictionaryによれば、the Shakespeare Industryという組み合わせで最初に用いられた用例は1966年となっております。ということで、50年サバを読んだことになります。間違いをお詫びして、訂正いたします。付け加えれば、「シェイクスピア産業」といわれることの実体は、遠く18世紀まで遡ることが出来ると考えられています。  シェイクスピア産業にはいろいろ分野がありますが、本日は出版物に限って話を進めます。ご承知の通り、industryという言葉の意味としては「刻苦勉励」「一所懸命」というのが元々のものです。シェイクスピア時代から1966年頃までに出版されたシェイクスピア作品全集および個別作品編纂本の合計数はほぼ1,400点を数えます。シェイクスピア作品は詩集を含めて約40篇であることを思えば、驚くべき数であります。これらのほとんどは英国、北米で出版されたもです。従って、このほかに、各国語翻訳などを入れれば、さらに増加します。その上、注釈書、研究書、論文に至っては、その数さえ把握するのは困難です。このような状況は同時に出版業界のドル箱であったわけです。ですからシェイクスピア産業という言葉には、例えば「ハムレットの編纂本にこれほど種類がある理由はあるのだろうか?」といった、ある種の皮肉が込められていると読んでよいでしょう。一般的に、特定の作家名などを付けてindustryを使う場合には、「シェイクスピア研究」という意味になります。  それから約半世紀が経ちましたが、「産業」は衰えることを知りません。1966年から2002年までに出版された全集および個別作品編纂本は300点余となっています。そして、2002年から2017年までに1巻本全集が4種類出版されました。薄いもので1,750ペイジ、厚いもので3,100ペイジ余りの大冊です。ついでながら、一番重い全集は2.9kgありまして、到底片手で気軽に扱える代物ではありません。その他に、1作品1冊の校訂本が何冊も出版されています。そして、20世紀末から顕著になった編纂本形式として、電子データによるものを上げることが出来ます。今世紀になってから出版された1巻本全集4点のうち2点は紙ベースの全集とインターネットによる電子データ編纂本がセットになっています。従って、正確には5点の1巻本全集というべきです。この点については、今日のお話の終わりの方で触れる予定です。これが書籍にまつわる「シェイクスピア産業」の概況です。  さて、これから話します中で本文という言葉を何度も用います。はじめに、簡単に説明をして置きます。本文とは、手書きのものであれ、印刷されたものであれ、それは特定の作品の正統な、あるいは、原初の形を伝えるもの――このようになろうかと思います。少し別な角度からいえば、物理的な形よりもそれが伝える内容を指すことになります。本日のお話に引きつけていえば、シェイクスピア作品の作者原稿は1枚も残っておりませんので、印刷本ということになります。そのような印刷本のタイトルペイジ(題扉)、序文、跋文、注釈、付録、索引などに対して、その対象となっている元の文章、ということになります。「ほんぶん」ともいいます。英語ではtextです。平たくいえば、作品を構成している文字列のことです。  今日私がお話ししたいことの中心は、シェイクスピアの作品として私たちが手にしているものがどのような手続きと経緯でそうなったのかということであります。その中心にあるのが本文編纂という作業です。特に本文編纂者textual editorの出現がシェイクスピア作品編纂本に大きな影響を与えることになります。本文編纂者の出現は18世紀初頭のことでありました。もっとも、研究者の間では、シェイクスピア作品編纂者は名前こそ表に出ないけれども、実質的にその役割、つまり、本文編纂という任務を担った者は存在した――このような説は多数派の支持を得ていると思います。確かに、ある作品を印刷する場合、その印刷用原稿、すなわち稿本、の性質がどうあれ、印刷現場で編纂作業に近いことが行われたことは間違いありません。ただ、私はこの無名・匿名の本文編纂者説●● ●●●●●●●●●にはやや距離を置いています。形式主義的過ぎるという批判は覚悟の上ですが、文学作品としてシェイクスピア作品が読まれることに堪えるうる編纂本の出現は1709年に出版されたニコラス・ロウの編纂した8巻本全集に始まる、と考えているからです。  さて、シェイクスピア作品が最初に出版されたのが1593年のことでしたから、今年で425年経ったことになります。この間のシェイクスピア作品出版の概数については、先に述べたとおりです。この間、さまざまな編纂が行われてきました。しかし、その歴史を辿って、全貌を語ることはここでは到底叶いません。今日ここでお話したいことの中心は、18世紀の早い時期に、本文編纂者が明示されて、1世紀ほどの間に、全集本が約30種類も出版されたこと、そして、それがそれ以降現代に至るまでのシェイクスピア編纂にどのように関係があるかを見ていきます。とはいえ、それでも歴史の大きな流れにしか話は及ばないだろうと思います。そこで、今日のお話では、18世紀前半に始まったシェイクスピア編纂本から実例を3つ引きながら、現代の全集本とどのように繋がり、また、どのように繋がらないか、ということを心掛けます。  ニコラス・ロウが版元ジェイコブ・トンスンの依頼によりシェイクスピア全集編纂に当たったと思われます。1707年,トンスンはシェイクスピア第4フォリオ(F4)の印刷・出版権保有者たちから権利を買い取ったとき,1709年に制定されることになる著作権法を視野に入れていたとみてよいでしょう。というのも,トンスンはシェイクスピア全集出版の中心的版元であり続けたばかりでなく,ミルトン作『失楽園』(1665年) を独占的に18世紀末まで出版できたのは,著者からの版権譲渡書を保持しているからであったとされているからです。まことに目端の利く版元でありました。そして,1709年にロウの編纂になるシェイクスピア全集がトンスンから出版の運びとなります。この8折版6巻本は,今日に至るまで連綿と続く近代シェイクスピア受容史(ここでは「書物」シェイクスピアの受容史)の出発点と見なすことが出来ます。その献辞で次のように述べています――
 この全集本が正確さにおいて作者の原初の原稿に肉薄した、とまで申すつもりはありません。なぜかならば、それは失われてしまった、もしくは、わたしの調査能力を超えているからです。そのような訳で、わたしがやるべきことといえば、数種類の印刷本を比較して、そこから導き出すことが出来る限りの正しき読みを示すことのみです。これをわたしは細心の注意を払って行いました。その結果、これまで放置されてきた、きわめて多くの意味不明な箇所を解明しました。
シェイクスピア作品編纂にあたって、このような編纂方針を明言したのは、ロウ以前の印刷本には見られないことです。  ところで、今日のお話のタイトルに書きました意味を通じさせる●●●●●●●●とは英語ではmake senseに当たります。ここでは、一般論はさておき、ことシェイクスピア本文に話を限ります。編纂者が意図する意味を通じさせる作業にはさまざまな種類、および、レベルがあります。最も馴染みがあるのは語義glossです。対象本文の中での意味を明らかにすることです。それから、複数の語からなる表現についての意味の解明があります。これは多くの場合、パラフレーズとか意訳という形をとることが多く見られます。幕、場、ト書き等を整理・挿入により読者の理解を助けるために、校訂本に可能な限り一貫性を持たせて、読者が理解しやすくする一連の作業が、本文編纂の目的であります。繰り返しますが、本文編纂作業にこのような考えを持ち込み、明確に高度な読者をターゲットとしたのが、18世紀のシェイクスピア作品編纂者でありました。  さて、シェイクスピア作品印刷の歴史は彼の生存中から行われていました。4折本(クォート、Q)といわれる印刷本で、18篇の芝居がこの版で出版されました。残り17篇は1623年出版の第1・2折本(ファースト・フォリオ、F1)でのみ出版されました。4折本のうち、一番古い芝居本は『タイタス・アンドロニカス』です。出版されたのは1594年のことでした。その題扉にあるのは「かくも悲しきローマ風悲劇」という作品名、上演した劇団名、印刷所、版元、販売所、出版年号であって、作者シェイクスピアの名前はありません。ただし、作者名が印刷されていない芝居本がシェイクスピアに特有ということではなくて、この『タイタス・アンドロニカス』から7篇の芝居本が1598年までに印刷されますが、いずれも作者名がありません。1597年の『リチャード三世』にも作者名はありません。『ロミオとジュリエット』などは1597年と1599年2度出版されます。それでも、作者名はありません。シェイクスピアの名前が作者として印刷された最初の作品は『恋の骨折り損』でした。1598年のことです。その題扉には「W. シェイクスピアにより新たに訂正と増補がなされた」とあります。その「訂正」の結果がどの程度のものであったか?『恋の骨折り損』の本文は大変に複雑なもので、簡単にまとめることは出来ません。これまでの研究から言えることは、1)非常に多くの誤植と難解な箇所があること、2)speech-prefix(セリフ冒頭の役名)の統一を欠くこと、3)主要登場人物たちに割り当てられているセリフに混乱が見られる、このような特徴を挙げることが出来ます。「W. シェイクスピアにより新たに訂正と増補がなされた」という文言を素直に信じることが出来ない理由です。  18世紀イングランドのシェイクスピア受容における二極化を書物●●(printed page)と劇場●●(stage)と称することがあります。言うまでもなく,その意味するところは,18世紀初頭から盛んになるシェイクスピア校訂本全集出版と王政復古後のロンドンの王立劇場を中心に盛んに上演されたシェイクスピア作品翻案物を指します。これは言い換えると、前者は真正シェイクスピア劇本文を求める作業であり、後者は時代の趣向と要望に応える劇場版シェイクスピア劇に作り替える作業でありました。有名な例を挙げるとすれば、ネイハム・テイト作『リア王の歴史』は1681年の作品です。よく知られているとおり、シェイクスピア作『リア王』の翻案物です。題扉には「テイトの改作による再演」とあります。『リア王』は時代の好みに沿うように改作され、ようやく18世紀後半に原作に従って幾度か手直しされます。しかしそれでもなお、18世紀を通じてシェイクスピア作『リア王』が上演されたことはなかったのでした。そればかりか、1830年代になって、テイト改作から約150年経って、ようやくシェイクスピア作『リア王』が劇場で復活したのです。  18世紀シェイクスピア編纂史上とても重要な書が出版されました。アレグザンダー・ポウプ編纂のシェイクスピア全集(1725年)に対する激烈な批判の書をルイス・シオボールドが1726年に出版したのです。『シェイクスピア校訂論』がそれです。この題扉は著者の意図するところを如実に表現していて、興味深いものがあります。この出版によりポウプの逆鱗に触れ,その結果として、『愚人列伝』(1728年)で槍玉に挙げられ,嘲笑われることになります。シオボールドの特徴はその「愚鈍さ(dullness)」にあるとポウプは痛烈に風刺しました。英文学史上つとに知られた事件です。  シオボールド著『シェイクスピア校訂論』題扉には,18世紀シェイクスピア作品編纂基本方針を映し出キーワードがいくつか列んでいるのは興味深いことです。即ち、restore「校訂する」、 (un)amend(ed)「改訂する」、correct「校正する」、edition「版《内容の異同; 全面的・部分的な改訂・補足》」、reading「(異本校合による)異文, (写本・原稿などのある箇所の)読み」、publish「公刊」 などです。18世紀シェイクスピア編纂本の序文,注釈の中で,この他に頻出する用語としては,improve(ment)「改良する」,refine(ment)「不純物を取り除く・洗練する」,conjecture「(推測による)判読, 修正 (emendation), 推測による本文校訂」等を挙げることが出来ます。つまり,編纂者が名前を明らかにして,シェイクスピア作品(しかし,当初は詩を含まない)の校訂を行う文化制度が誕生したのです。それが18世紀初頭のことでした。題扉にはウェルギリウスからの引用がエピタフとしてあります――「そしてここでデーイポボスが全身を引き裂かれているのを、その顔については残忍にも形がないほどにされているのを、アイネアースは見た。」ズタズタにされたプリアムの息子デーイポボスの死体を目の当たりにするアイネアースの姿に、シェイクスピア編纂者の姿を重ね合わせているようです。  それでは、18世紀の本文編纂者が本文にどう向き合ったのかを見ていきましょう。最初の例は『ヘンリー五世』からです。すべてのシェイクスピア作品本文の中で、恐らく、最も有名かつ難解とされている箇所です。英語ではcruxと呼びます。『ヘンリー五世』は1600年に4折本で出版されました。これは1623年出版のファースト・フォリオ (第1・2折本、F1)に比べて、約半分の長さしかありません。それでいて、ファースト・フォリオにはない55行のセリフが含まれています。現在の多くの『ヘンリー五世』編纂本では2幕3場15行目あたりに出てきます。『ヘンリー四世・第1部』に登場して以来、シェイクスピアが創った登場人物の中で、最も記憶に残る人物のひとりであるフォールスタフの臨終の場面を回想するクイックリー夫人のセリフです。
Q1: His nose was as sharp as a pen. 彼の鼻はペンのように尖っていました。 F1: for his nose was as sharp as a pen and a Table of green fields 彼の鼻はペンのように尖っていました、そして緑の野原のテーブル
下線部は第ファースト・フォリオにのみあって、4折本にはこの部分がありません。現代の本文研究では、『ヘンリー五世』については、シェイクスピア原稿を元に印刷されたのがファースト・フォリオであるとされています。a Table of green fieldsとは何であるか?このような疑問を最初に持った編纂者がポウプでした。ポウプ編纂になる6巻本全集は1723年~25年に掛けて出版されました。版元トンスンはファースト・フォリオ出版100周年記念を商機と考えていたと思われます。ポウプは自ら編纂になる全集本の『ヘンリー五世』のこの箇所に脚注を付けています。結果として、この校訂はそれこそナンセンスなのですが、歴史的異議は大きいと言わざるをえません。ファースト・フォリオ出版から100年と言いましたが、ポウプ版に至るまで、a Table of green fieldsを問題視した編纂者、批評家は一人もいなかったからです。ポウプの考えはこうです――先ず、先行する1600年および1608年出版の4折本にa Table of green fieldsはない。そして、これは役者用セリフ抜き書きの欄外に書かれていたのであったが、上演用台本制作者がそれを間違ってセリフの中に書き込んだ。ここは旅籠であるから、酒盛り用のテーブルが必要である。そして、green fieldsは実はGreenfieldという名前の、シェイクスピアが属する国王一座の道具係である。つまり、a Table of Greenfield’sというト書きなのである――ざっとまとめると、これがポウプの校訂の理論でした。  やや詳しくポウプの本文の扱い、および、その脚注を見ました。現在の基準からするまでもなく、1733年出版のシオボールド編纂全集7巻本の当該箇所で、ポウプの注解は完膚なきまで否定されることになります。シオボールド版のこの長い脚注のポイントのみを触れます。第1に、シェイクスピア時代の英語に関するポウプの知識が不十分であったことが挙げられます。先ほどご覧に入れた and a Table of green fieldsは構文としても成り立たないのですが、aが三人称単数代名詞であることにポウプはどうも思いが至らなかったようです。シオボールドはエリザベス時代の筆法(秘書体とも呼ばれますが)で書かれた原稿にある小文字bが、文選工(植字工)により大文字Tと読まれてしまった。このような仮説です。この知識もポウプにはどうやら欠けていたようです。シオボールド説によれば、次のようになります。
and he babbled of green fields そして彼は緑の野原とうわごと・・・・のように言いました
高熱にうなされている哀れなフォールスタフの姿が彷彿とします。シオボールドが見せた、このような意味を通じさせる手法には感嘆するばかりです。 シオボールドの脚注のポイントは、これが作品編纂の底本である第4・フォリオのTが秘書体小文字bであるとの推測、そして、これを文選工がTと読み間違えたという推測です。ここには物的証拠に基づかない推理・推測が二重にあるわけです。ポイント第2は、これをシオボールド自身が推測による校訂●●●●●●●(conjectural emendation)と認識していることです。この読みを彼自身敢えて正統な読み●●●●●(the genuine reading)であるとも呼んでいます。  さて、現代の編纂本では、先に述べた編纂者の本文の扱いはどのようになっているかを見てみます。先ず『ヘンリー五世』のa Table of green fieldsはその後どのように扱われたでしょうか。この箇所に対する校訂はシオボールド以外にも成されました。それも18世紀からです。しかし、シオボールドよりも優れた校訂がなされとはいえません。代表的なのは、green fieldsはバックギャモンというゲームの緑色のテーブルクロスを指しているというものです。シオボールドが校訂によって意味を通じさせた一節は、旧約聖書・詩篇との繋がりを20世紀になってから、さらに別の編纂者に意味を通じさせる切っ掛けを与えたことになります。
The Lord is my shepherd; I shall not want. He maketh me to lie down in green pastures; he leadeth me beside the still waters. 主は羊飼い、私には何も欠けることがない。主は私を青草のはらに休ませ憩いの水のほとりに伴い・・・(旧約聖書・詩篇23)
この一節をフォールスタフはおぼろげに思い出しているのだ、との見解です。この後に「死の陰の谷を行くときも私は災いを恐れない」と続く箇所です。これ