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2017.08.22The Shakespeare Festival

2017年度シェイクスピア祭報告

トーク「蜷川シェイクスピアを振り返る」 講師:  松岡和子氏(翻訳家・演劇評論家・東京医科歯科大学名誉教授) 聞き手: 野田学氏(明治大学教授) 講演「シェイクスピアの面白さ」とは何か 講師:高田康成氏(東京大学名誉教授、名古屋外国語大学現代国際学部教授)

トーク「蜷川シェイクスピアを振り返る」(概要)

(講師)松岡和子氏・(聞き手)野田学氏

製作現場の緊迫感

蜷川幸雄の舞台製作の現場に20年ほど立ち会い続けてきた、自称「ニナガワ・ウォッチャー」としての松岡和子氏は、これまで記録してきた蜷川語録のメモを時折披露しつつ、舞台の製作現場の緊張感と、役者の大変さを語った。『リチャード二世』の時は主役以外には役が決められておらず、セリフの大部分を覚えていないと役が来ない可能性もある緊張感に加え、役者への要求は非常に高い。しかしその一方で蜷川は自身が挫折した役者であったことの裏返しとして役者への愛情も人一倍大きい。『タイタス・アンドロニカス』の主役に初めて吉田鋼太郎を起用した際に、吉田鋼太郎の実力は折り紙付きだったが、「こういう役者が中心にいて、人を呼べる演劇界にならなければいけない」として、初日公演の直前に全員に切符を売るようにと蜷川が初めて言ったというエピソードも披露された。鋼太郎への蜷川の期待の大きさを示すとともに、演劇界全体を見通していたからこそ出た蜷川の言葉だと松岡氏は言う。

蜷川の演出について

 作品の演出を最初から決めてかかるのではなく、蜷川はたいてい途中で変更しつつ作ってゆく。それは、俳優のアイディアによるところも多く、他者の想像力が介入すると自分の想像力も広がるという思いからであったようだ。また、自分自身初めてのことをやるという負荷をかけることで、いい演出ができるという。  スタッフの優秀さは蜷川の演出を支えていて、蜷川が食事の場面にパンが欲しい、ただし細長いフランスパンでは嫌だと言うと、大型の丸いカンパーニュを演出部が出してきたという。音楽への注文も多く、『タイタス』の際には「ワーグナーでも何でもいいからやってくれ、俺このごろストイックだけど、もうやめた。ストイックだったらこんな芝居やれねえから」と作品の冒頭にある凱旋と葬儀という相反する二つの儀式を表現する音楽を望んだという。最終的には音楽担当の笠松泰洋氏により、蜷川の意図にマッチした非常に派手な曲が作られた。  蜷川は極端に相反するものを攻撃的なまでに見せることで演劇を魅力的なものにする。二つのものを対立させてみせることは『リチャード2世』でも行われ、幕開きで30台の車いすに乗った老人を若者が押して来た後、突然タンゴを踊り出す。その場面は衝撃的であるだけでなく、この劇の内容をも示唆するものとなって、深みを与える方向へ行く。
 言葉を最も重要視する蜷川は、大げさに手を使ったり表情を付けたりする演技を嫌い、たびたび俳優にダメ出しをしていた。舞台上に観客席を設けたり、鏡を使う演出もよく行われたが、これは世界のあちら側にもまた世界があることを示しており、蜷川自身がシェイクスピアをどう見ているかの全体像のモチーフでもある。俳優のアイディアを取り入れてゆくことも多く、『じゃじゃ馬ならし』で歌舞伎の市川猿之助(当時は市川亀治郎)を起用した際には、特に猿之助からの演技の提案が多かったため、他の俳優をも鼓舞し、切磋琢磨した非常に活性化した舞台となった。

生活者としてのスタンスと西洋への挑戦

 蜷川が残した最後の原稿は国際シェイクスピア学会から昨年刊行されたShakespeare's Creative Legaciesに掲載されている「シェイクスピアと私」というタイトルのエッセイで、蜷川の喋った内容を松岡氏が翻訳してまとめたものである。その中で「シェイクスピア劇をやれば世界がみんな手に入る。そう思った。僕は世界だ、世界は僕だ、というふうにしようと思った」という。また、蜷川の根底には生活者としての羞恥心があり、それが翻訳劇によくある西洋的な衣装を脱した、袴姿などの日本的な衣装を多用することへと結びついている。  舞台装置に関して、例えば『NINGAWAマクベス』の際の巨大な仏壇は、舞台上の老婆が覗き見るという形を取ったが、そこには生活者の側に立った舞台にしたいという蜷川の思いがあったようだ。また、『ハムレット』の劇中劇の場面の雛段は、日本人の深い記憶にあるものを出すという意識があったとのことだ。蜷川の演出はイギリスの観客に大きな衝撃を与えたが、「聞く」シェイクスピア劇を「見る」ものに変換したことが蜷川の大きな貢献だと思う。蜷川の根底には歌舞伎があり、その視覚的な発想は東西を通底するようなことをやっている。イギリスで上演した『ペリクリーズ』では西洋への闘争心をむき出しにし、東洋的な観念を取り入れた世界に類を見ない舞台となった。蜷川は世界を把握したいという思いを「誇大妄想」と呼んでいたが、実際貪欲なまでに世界全体をつかみ取りたいという思いを持ち、高みを目指していた。

蜷川亡き後

 蜷川から直接演技指導を受ける俳優は今後いなくなるので、蜷川から言葉と魂をもらった俳優たちが次の世代に伝えてゆく使命がある。それは松岡氏本人も同じ使命があると感じている。蜷川シェイクスピアを語る上で最も重要なのは舞台で発せられる言葉で、蜷川自身も「シェイクスピアをやる上ではあくまでも言葉が軸になっていなければ駄目だ」と言っていた。  世界的に高名な演出家であるデヴィッド・ルヴォーも「シェイクスピアのセリフというのは一見、ただの状況説明とか情景描写にみえるかもしれないが、そんなものはただの一言、一行もない。全てのセリフが相手を動かそうと書かれている」と語っている。蜷川は奇抜な手法を用いて世界と戦っていたわけではなく、基本をきちんと押さえた上で挑んでいた。だからこそ、世界中から注目されるシェイクスピア演出家であり続けたのだろう。蜷川イズムの基本は言葉であるから、松岡氏は蜷川の言葉の代弁者として「言葉が大事」だということを後世に伝えていきたいと最後に語った。

シェイクスピア祭 講演(全文) 「シェイクスピアの面白さ」とはなにか

東京大学名誉教授/名古屋外国語大学現代国際学部教授 高田 康成

 本日お集まりくださった方々には言わずもがなのことですが、シェイクスピア大先生の誕生日と命日はほぼ重なり、それが4月の今頃ということで、シェイクスピアを愛好する人々の団体である日本シェイクスピア協会としても、ただ傍観してこの機を逃すわけにもいかない。というわけで、こういうお祭りが、驚くことに、毎年開催されてまいりました。そしてなにしろ毎年の恒例行事ですから、お祭りをどこでやるのか、出し物はどうして誰を呼ぶのか等など、名誉なことにちがいないのですがもし協会の委員に選ばれてしまいますと、それは大変なのです。不肖このわたくしも、かつて協会の委員を何年か務めさせていただいたことがありますので、その面倒いや困難は、それこそ骨身に沁みて知っているつもりです。もちろん、講師謝礼として、せめて片手の指の数くらいの金額を出す予算的余裕が協会にありさえすれば、さして問題はないのでが、なにせ貧乏学者の団体ですから、そうはいきません。(シェイクスピアですから、財界政界等の粋な教養人から寄付があってもよさそうに思われるかもしれませんが、こちらもお寂しい限り。)  というわけで、緊縮財政の下で何とかするにはどうするか、知恵を絞った結果はつねに講師料のかからない協会メンバーに頼むという、安直な方法に落ち着きます。講師として白羽の矢が立てられた協会メンバーにしてみれば、年会費を払った上でのヴォランテイァ活動ですから、ある種の覚悟がいります。ですから今回、シェイクスピア祭で話をしてほしいという名誉な依頼を協会役員の野田先生からお電話をいただきましたとき、「嗚呼、来たか」とややくすぐったい思いをいたしました。あの世に逝くまえに少しは良いことをしておくべきだろうと思う歳にもなったことですので、快諾いたしました。ということで、本日のお話しはあくまでヴォランィア活動であるとご勘案いただきまして、これから約80分の駄弁をご辛抱願いたくお願い申し上げます。  さて、本日のお題〈「シェイクスピアの面白さ」とはなにか〉は、まことに面白くないものでございます。面白くないだけでなく、皆さんもそうお思いではないかと想像するのですが、妙な演題です。とりあえずは、「シェイクスピアの面白さ」がどんなものか、どういうところが面白いのか、というような話をするとお考えになるのが普通かと思います。台詞の妙から、筋立ての巧み、登場人物の神がかり的な造形、あるいは聖俗合わせまして卑猥なところと深遠高邁なところが同居するという、あたかもわが自民党の派閥を思わせるような価値観の雑居性。あるいはまた、悲劇と喜劇の双方に等しく筆を振るうばかりか、それこそあのお喋りポローニアスが口走った多様なジャンルをまたにかけ、嬉々として自由に遊ぶがごとき豊穣きわまる作品世界、等など。シェイクスピアとしばらくお付き合いしたことのある人であれば、おそらくこうした類の「面白さ」を語るのだろう想像されるのではないでしょうか。  「人は知らない想定外のことを言われると不快に感じ、逆に想定内のすでに知っていることについて話されると快感を覚えるものだ」、だから「聴衆の知らない想定外のことを言ってはいけない」とかつての同僚の先輩に助言されたことがあります。なるほどと納得しかけて、「アリストテレスの名言ですか」と質しますと、「いや、私の信じる言葉だ」とのたまはれる。ちなみに、この政治学者は、頼まれて応援演説に行くのだそうですが、きまって候補者は落選するという噂でした。ということで、ここでは想定内の「面白さ」についてお話することはしないつもりです。  もちろんそうした「面白さ」に少しは触れざるをえませんが、それを語ることを主眼としません。といいますのも、そうした「面白さ」、とくにわたしたち日本人にとって間違いなく「面白い」と思われるところを、縦横に遺憾なく論じた本がすでに存在しているからです。みなさんすでにお気づきかと思いますが、いわずとしれた中野好夫の『シェイクスピアの面白さ』(新潮選書)がそれです。ということで、本日のお話は、この『シェイクスピアの面白さ』という本が扱った「面白さ」とはどういうものなのか、いかなることを示唆し、どういう意義があり、いかなる問題を提起するか、というようなことを主眼とするというものです。「くだらん、帰ろう」と即座にお思いの向きもあろうかと思いますが、そこはどうか今一度、このわたくしの話が、あくまでヴォランティア活動であるという厳粛なる事実に免じまして、そしてひいては日本シェイクスピア協会のためにも、どうかしばらくご辛抱いただきたくお願い申し上げます。  さて、ものの偶然と申しましょうか、中野好夫の『シェイクスピアの面白さ』が出版されましたのは、今からちょうど50年前の1967年。すでに半世紀も経っておりますから、この毎日出版文化賞に輝いた本をご存じない方々も多いことでしょう。中野好夫には著作の生産様式というのがありまして、だいたいはまず月刊誌のたぐいに連載をいたしまして、それを後に纏めて本の形にするのです。(悪く言えば原稿料の二重取りですが、宮仕えを離れて筆一本で生計を立てることがすなわち精神の自由に通じると信じる中野ワールドでは、いささか重要な所得倍増様式なのです。)『シェイクスピアの面白さ』の場合は、1964年から65年にかけて今も続いております月刊誌の『学鐙』に連載された全23回の文章を纏めたものです。この連載における原則は初回の劈頭一番に記されております。曰く「どこまでもシェイクスピアの面白さについて書くのであって、シェイクスピアの偉大さや深遠さについて書くのではない」。言い換えれば、シェイクスピアの哲学とか思想とかにはまず係らずに、ひたすら「面白い」と思われるところを中心にして書く、というわけです。仏教用語で「如是我聞」――私はこのように伝え聞いた――という言葉がありますが、それを中野はもじって「如是我観」――私はこのように観た――としまして、自分だけの「シェイクスピア如是我観」、これこそ『シェイクスピアの面白さ』という作品に他ならないのだ、とも言っております。何故そのことに殊更こだわるのかといえば、「文学の存在意義などというものは、結局それなのではないかと思っている」からのだ、と例によってあからさまです。  しかし、ここでわれわれは騙されてはいけません。すなわち、「文学」なんてのは、所詮、趣味の問題にすぎず、自分にとって「面白ければ」それでいいのだ、と考えてしまう誤解です。中野自身も、次のように続けて補っております。
もちろんシェイクスピアの芝居から、彼の人生観、哲学、宗教観、芸術観、等々といった、およそそうしたこちたき議論を引き出すことは当然できるし、そうして悪い理由も毛頭ない。だからこそ汗牛充棟のシェイクスピア学も成り立っているわけだ。だが、そもそもシェイクスピアが私たちに提出しているのは、まずなにを措いてもThe play’s the thing*なのであり、哲学も人生観も、すべては芝居という媒介を通じて表現されている。決してなまの思想としては出されていないのである。だから芝居としての面白さもわからずに、思想もへったくれもないのであり、、、。(p. 4:『シェイクスピアの面白さ』からの引用は、新潮選書版[1967]からのものであり、以下ページ数のみを付す。)   *「遊び心・芝居が肝心」ほどの意味でしょうか。昨今であれば、さしずめ「The Play First」といったところでしょうか。
と、これまた歯切れのよい「直言」調です。これを裏返して言うならば、シェイクスピア文学には、いわずもがなの前提として、「哲学や思想」が含まれている、まさにそれはそうなのだけれども、まずは魅力あふれる「面白さ」の次元でもって人々の心を誘うことが肝要で、ここに「文学の存在意義」のだというのが中野の真意なのです。これはたとえば日本の近代という問題を考えようとしたとき、福沢諭吉の論考を読むにこしたことはいないのだが、夏目漱石の小説のほうが入り易いに決まっている、ということでしょうし、旧くは古代ローマのホラティウスがその名高い『詩論』で推奨したdulceとutile(愉しさと有益さ)という両輪の理想にほかなりません。  実は、かくいうわたくしも、まさに若気の至りと申しましょうか、その昔初めてこの本を手にしましたとき、その真意をみごとに読み誤ったのでした。深遠で重厚な議論は横に置いて、「シェイクスピアの面白さ」なんてのを後生大事にただ語るなどという冗談はよしてくれというのが、未熟なわたくしの正直な感想でした。この本が出ましたのは、先に触れましたように1967年でしたが、わたくしが実際にこの本を読みましたのは、おそらく2-3年後の1969-1970年ごろだったかと思います。当時は、大学でも大学院でも、文学専攻のカリキュラムに「批評」とか「批評理論」などと銘打った科目はまだ正式に立っておりません。しかしなにしろ、「68年」と象徴的に呼ばれるようになる(学園紛争の)時代の前後ですから、旧来のディシプリンを墨守していた頑迷固陋なアカデミズムの壁がようやく崩れかけ出したころに当たります。若者は当然のごとく、後に「批評」や「批評理論」と公式に呼ばれることになる知的領域に惹かれてやまない。後に流行語となり定着することになる「学際的」(interdisciplinary)という、分野の壁を越境する悦楽に酔うわけです。英文学なんぞを専攻していても、文化人類学や心理学、哲学や言語学、社会学や宗教学などに触手を伸ばす。そういった知的状況にあって、一つの合言葉は、「68年」という政治的変革に付随伴走してフランスから上陸した「構造主義」でした。当時、服飾のファッションはほぼパリコレと決まっていました。知的流行の面でも同様で、ついこのあいだまで流行った「実存主義」に代わって、「構造主義」が続く。サルトル来たりなば、クリステーヴァのまた遠からじ。そういう知的流行の最中では、つとに60年代の英米文学において一種新興宗教のごとく崇められていた「ニュークリティシズム」という読みのテクニックも、次第にその効力を失っていかざるを得ませんでした。象徴的に申しますと、クレアンス・ブルックスの『拵えの良い壷』(Cleanth Brooks, Well-Wrought Urn, 1947――出版70周年!)が必読書であった時代から、ローマン・ヤコブソンとレヴィ・ストロースの共著になる「ボードレールの『猫』」(Roman Jakobson & Claude Levi-Strauss, “« Les Chats » de Charles Baudelaire », L’Homme (1962) [日本では70年代初頭に翻訳上梓]が、知る人ぞ知る、陰の必読書に換わるという時代の転換期、巷では「知の地殻変動」とまで言われておりました。  またしても中野好夫の話から、脱線してしまいましたが――ちなみに、「脱線」は中野好夫のお家芸で、その文章に「閑話休題」(すなわち脱線から本筋に話を戻すときの枕詞)の出番のまあ多いこと多いこと。この四文字熟語は殆ど中野から学んだといってもよいくらいです。  ということで「閑話休題」。ともかく彼の『シェイクスピアの面白さ』が出た時代というのは、「構造主義」に代表されるような新手の読み方(今日的な言い方をするならば「テクスト分析の方法」)あるいは「解釈の理論」等が、出回り始めた時代であったということを確認してもらいたかったのです。そういういわば哲学・思想の理論かぶれ的な時代の知的雰囲気の真っ只中で、こともあろうにわれらが中野は「シェイクスピアの哲学や思想について論じるのではなくて、ただもう芝居としての面白さについて書こうというにすぎない」などと、ファッショ反動的としか見えない発言をしたわけですから、英文学の徒弟時代にあったこちらとしても、お爺さんの道楽にお付き合いする暇はないなどと未熟にも決め付けてしまったわけです。  しかし、その出版から半世紀を経た今日、改めて『シェイクスピアの面白さとはなにか』を再読するとき、さまざまな意味で刺激的で、啓発されるところの多い作品であると考えを新たにされるのです。《「シェイクスピアの面白さ」とは何か》という本日のお題の下にお話させていただきたいのは、まさにこのことに他なりません。「さまざまな意味で刺激的で、啓発されるところ」とは、以下のようなことです。第一に、そこで語られる「面白さ」は、わざわざ思想とか哲学とかいった「こちたき」ところとはこれを排除して、それとは一線を画する「面白さ」を扱うと断るわけですが、そのこだわりはいったい何を意味し何を示唆するものか、これが第一点。  第二に、殊更そういう意味的限定をして、その原則に基づいて書かれたにもかかわらず、後で見ますように、結果的には、その限定から食み出して、いわばそれを裏切るような別種の「面白さ」が重要視されるにいたるという矛盾。『シェイクスピアの面白さ』の「面白さ」というのは、いってみれば素人の読者を基準と定めて書き始められたものと言うことができます。したがってその帰結として、玄人筋ともいうべき学者や教師向けの議論は、これをつとめて忌避する、というより学者や教師はむしろ中野の「仮想敵」の感が強い。たとえば、日本のシェイクスピア理解は遅々として進まないと慨嘆するのですが、その理由のひとつとして槍玉に挙がるのが、きまって英語教師なのです。シェイクスピアの理解が遅れをとっているのは、その作品が、
 あまりにも多くの心ない英語教師たちによって、教室でテキストとして使用されたからに相違ない。およそどんな文学作品でも、教室でテキストになったらおしまいであることは周知の通り。まことにそれはあの緑の牧場を枯れ草ばかりあさって歩く哲学者の愚かさに似ているからである。(p. 6)
「あまりにも多くの心ない英語教師たち」とくるのですから、『シェイクスピアの面白さ』と題する書物が、どのような読者を想定して書かれたものか、およそ見当がつくというものです。中野の毒舌にかかりますと、英語教師とか哲学者はいつも散々な目に会うのですが、つまりは心ない教師とか衒学趣味の学者――だいたい教師は心なく、学者もだいたい衒学的といわれれば確かにそうかもしれないのですが――とかいう連中こそ、シェイクスピア文学の一番大事なところ、その肝の部分を台無しにしてしまう張本人だという気持ちが、確信に近いものとなっていたのでしょう。ところがです、『シェイクスピアの面白さ』の最後近くになりますと、やはり純粋に素人的な読みではシェイクスピアのほんとうの面白さは分からないという思いが、俄然頭をもたげるのです。玄人筋の英語で原文を読むことの必要性が、ゆくりなくも云々されてしまう。皮肉と言いましょうか矛盾と言いましょうか、「面白さ」をめぐって出来するこのようなネジレといいましょうか齟齬、これが第二の問題です。  第三の問題は、これが最後の問題ですが、では何故そのような矛盾というか皮肉な事態が生まれてしまったのか、ということ。ただ、ここですぐお断りしておかなければいけませんのは、矛盾とか問題だとか言っても、それでもって中野を批判しようとか腐そうなどということでは毛頭ない。そうではなくて、あとで明らかになると思いますが、この中野に窺える矛盾は、広く一般に、わが国近代における外国文学受容ないし研究が必然的に抱え込まざるをえなかった、そして今も相変わらず抱え込んでいる、面倒な問題をはしなくも浮き彫りにしてくれるのです。そういう意味で、われわれにとって貴重なケース・スタディとなりうるものとして、重要だと思います。ですから、矛盾とかネジレをあげつらって楽しもうなどとはいささかも考えておりませんので、この点、宜しくご留意いただきたい。だいたい、そうでなくても、中野好夫といえば知る人ぞ知る、その相貌は一見して破戒僧を思わせるがごとき強烈なもので、あの世におられると知りながらも、なんとなく批判めいたことは言いがたいところがあります。  ちなみに、私はまことに残念ながら、中野好夫にお目にかかったことも、遠望したことさえもありません。私の師匠は小津次郎先生でして、中野のお弟子さんの一人でしたから、今思えば、お願いすればお会いすることはおそらく造作なかったはずなのですが、なにしろ当事は先に申しましたように、中野といえば、旧世代というより旧石器時代の残党にしてジャーナリズムに転じた怖いお爺さん、くらいにしか見ておりませんでしたので、いずれ縁がなかったものとみえます。ただ、ニアミスといっては変かもしれませんが、それに近いことはあったのです。忘れもしません、1976年の5月30日に広島大学で開催されました第48回日本英文学会大会で、中野は「シェイクスピア、コンメディア・デッラルテ、そしてジャック・カロ」と題して粋な特別講演をしていたのですが、その同じ大会で不肖わたくしも、人生初の学会デビューを果たしました。中野の特別講演にたいして、こちらは「Conceit再考」と題するシンポジウムでして、司会は由良君美大先生、パネリストには富山太佳夫、高山宏。この両新進気鋭の俊英に伍しまして、どういうわけか愚生が文字通り末席を汚す格好でした。わたくしにとっては、なんたってデビュー戦ですから、同じ学会で中野が特別講演をしようがしまいが、それに気をとられるような余裕などもとよりあろうはずがありません。今思えば、まことに残念なことをいたしました。ついでながら、明治生まれの中野はそのとき73歳、本題の『シェイクスピアの面白さ』を出した当時は、64歳です。  またしても脱線つづきで前置きが長くなりましたが、「閑話休題」。本論の第一点、すなわち、中野がまずなにをもって「面白い」と思っているのかを、整理することから始めることにしましょう。申し上げましたように、連載をそのまま書物のかたちに仕立てたものですから、ご本人も「最初から一定の計画を決めて書きはじめたわけではない」(8節、p. 67)とか、あるいは「またしても無方針、無計画でまことに恐縮だが」(11節、p. 99)などと、しばしば言い訳をしていることから分かりますように、とりあえず『シェイクスピアの面白さ』を主題と定めたものの、なんら構成等の基本方針を用意しておりません。理由はかんたんで、そもそも2、3回ほどで終える心積もりだったようでして、長期にわたる連載など、はじめから想定していなかったということなのです。  「シェイクスピアの面白さ」として、一つ目に中野が挙げるのは、言葉あるいはセリフの妙に発するさまざまな面白さ。たとえばフォルスタッフの口をついて出てくるような、「イキのいい言葉の豊富さ」。当然「駄洒落」も「猥雑な言葉」もここに含まれます。しかし同時にまた、言葉の豊富さはすなわち冗長にあらずということで、逆に緊張の孕む場面となると、たとえば、マクベスによるダンカンシの弑逆直後の婦人との会話の場面のように、「これ以上一語の節約もゆるさないほどの抑制、簡潔さを示す」(p. 19)巧みさというのも挙げられます。また、シェイクスピアの芝居に普通によく見られる、ほとんどト書きなしで会話の状況を観客に自然に伝える技術の卓抜さなども、セリフ回しの妙として、中野の高く評価するところ。  二つ目に挙げられる種類の「面白さ」は、登場人物の性格造形の妙に関わるものです。これについては、くどくどと述べるまでもなく、大方の同意が得られるかと思いますが、中野は加えて、よく言われる「〈運命劇〉と〈性格劇〉の対立的区分」でもって安易にシェイクスピアの「性格劇」を捉えてはいけないと言います。そういう紋切り型の考え方をあっさり超えるところに、シェイクスピアの性格造形の尋常ならざる秀逸さを見ていて、それはたとえば『ジュリアス・シーザー』における主要登場人物の心理だけでなく、群集の心理をも知り尽くした劇作術に如実にみてとることができる、あるいはオセロとイアーゴが交わすセリフの行間に滲み出る心理の綾などによって例証するのです。  三つ目に挙げられるのは、シェイクスピアの芝居に見られる「現代性」の妙味です。(これは前の二つに比べてやや込み入った概念ですが、中野のいう「面白さ」を理解するうえで重要となります。)中野はこう言っております。
一言でいえば、シェイクスピアの劇とは、その外形、第二議的属性 [いわゆる演出と考えてよい、高田] にかかわらず、精神においてはそもそもの最初から、それぞれの時代の「現代物」として理解され、訴えかけてきたということである(p. 84)。
ということでして、たとえばシェイクスピアを日本語で上演する場合においても、極力「現代語」に翻訳する努力を怠ってはいけない、と中野は主張します。「とにかくシェイクスピアの原作には、たとえ用語の末節をこえても、相当思い切って、生きた現代語にするのでなければ、とうてい移しきれないピチピチした生命力、ハツラツたる精神がある」(p. 84)のだからというのがその理由です。昨今に例をとるならば、「超」とか「ヤバイ」とか「カワイイ」とか、あるいはさらに「忖度」なんて言葉を適宜はめ込むということかもしれません。  この「現代物」という言葉で言われるものは、存外面倒な問題を提起します。いずれ「同時代的なハツラツさ」と言ってしまえば、なんとなく分かる気はします。しかし、引用中とくに「精神においてはそもそもの最初から、それぞれの時代の『現代物』として理解され、訴えかけてきた」というくだりは、きわめて巧妙な文章でして、およそ一筋縄では行かない。まずは時間軸に沿って考えることにして、「そもそもの最初から」そして「それぞれの時代の」という言葉がありますから、オリジンとしての「当初」の時代があり――これはもちろん文脈からしてシェイクスピアの時代ということです――そしてその後のさまざまな「時代」がある、ということです。まず問題は、シェイクスピアの芝居が、当初の時代において「現代物」として理解されるということは、どういう意味かです。われわれは、シェイクスピアの作品には、英国とローマを扱った「歴史物」があることを知っていますから、それらをも含めて、全ての作品はひとしなみに「現代物」として理解され、訴えかけていたのだなどと言われますと、即座になんだか変だと思わざるをえません。しかし中野の言いたいところは、どうやらそうではないらしい。たとえ過去の「歴史」的題材を扱う作品であろうと、上演当時の社会に「ハツラツと」として受けとられないような芝居はもはや駄目である、というのが中野の真意のようなのです。それを「『現代物』として理解され、訴えかける」と表現しただけなのです。  ただ、これで問題が解決したわけではありません。たしかに当初の時代における「現代物」としての理解はこれで宜しい。しかし、その後の時代における「現代物」としての理解云々になりますと、話はまた別です。後代の演出においては、当初の時代に「現代物」として上演された作品でも、すべからく「過去」のものとしてまずは認識されざるをえません。上演時の社会にとって「現代物」として理解されるように工夫することはできますが、それは当初の時代に「現代物」として理解されたのとは、質的におのずと異ならざるをえない。すなわち、後代の演出における「現代物」志向というのは、過去のオリジナルとなる作品の歴史的認識が否応なく伴わざるをえない、しかしその上で故意に歴史的「過去」性を否定して「現代物」モードに変換して演出するというものです。それにたいして、当初の時代での「現代物」志向には、この起源としての歴史的「過去性」の否定がありません。  もちろん、中野がこの歴史感覚の問題に気が付かなかったはずはありません。そんなことは百も承知で、やや乱暴に「現代物」志向主義をエイヤーと論じたのには、おそらくそれなりの理由があったからだと信じます。そこで今一度、引用した文章に当ってみますと、「精神においては」という但し書きがその理由を説明してくれるように思うのです。「精神においてはそもそもの最初から、それぞれの時代の『現代物』として理解され、訴えかけてきた」。つまり、演劇作品というのは、題材の歴史性に係りなく、また元来の作品上演の過去性に係りなく、常に「現代物」の精神において演出上演すべし、ということなのではないでしょうか。この「現代物」志向の精神、これをヨリ卑近な言葉で中野は「現代語にするのでなければ、とうてい移しきれないピチピチした生命力、ハツラツたる精神」(p. 84)と言ったものと思われます。  すべての時代に超然たる「現代物」の精神などという超越論的な見方をとってしまいますと、過去の一時代に歴然としてあったものごとの「歴史性」ないし「過去性」は、いっぺんで吹っ飛んでしまいます。そして、そのことは中野自身が現に肯んずるところではありませんでした。そのことは、『シェイクスピアの面白さ』のなかでも、都合4章(連載4回)にわたって、シェイクスピアの時代の歴史的特質をやや詳しく語っていることからも分かります。それぞれのテーマは、ルネサンスという時代の特質(第10章)、エリザベス女王の特殊性(第20章)、エリザベス朝からジェイムズ朝への移行期の特性(第21章)、といった具合です。なかでも「ルネサンス」という時代については、それがシェイクスピアの時代だったということもありますが、そして東大文学部時代の同僚であり親友でもあったラブレー学者の渡辺一夫と意気投合するところもあったのでしょう、特殊イギリスのそれに限らず、汎ヨーロッパ的な視野で好奇心を寄せておりました。しかも、我々にとって興味深いのは、後代の19~20世紀が描くことになった「ルネサンス像」の変容についても、中野は冷徹正確におさえていたことです。欲望の解放、旧弊の打破、懐疑論の台頭、個人の発見、こういった近代を形作ることになる価値観の序章としてルネサンスを捉える見方が、19世紀後半にヤーコプ・ブルクハルトJacob Burckhardt (1818-1897) やJ.A.シモンズJohn Addington Symonds (1840-1893)によって提唱されたとするならば、第一次世界大戦後には、逆に中世的世界観に引き戻すような、固定的なヒエラルキーに彩られた調和的世界像の存続面を強調する、「反動的な」ルネサンス観がネオ・カトリシズムを代表するエティエンヌ・ジルソンEtienne Gilson (1884-1978) やクリストファー・ドーソンChristopher Dawson (1889-1970)らによってもたらされた。こういった歴史認識における「現代」と「過去」の弁証法的ダイナミズムをも中野は視野におさめながら、ルネサンスというものを捉えていたということが分かります。  わたしたちにやや引き付けてこのことを省みますと、第二次大戦後のシェイクピア研究は、「固定的なヒエラルキーに彩られた調和的世界像の存続面を強調する」ティリヤード(E.M.W Tillyard)の『エリザベス朝の世界像』(1942)の強い影響下に始められた感が強いのですけれども、その後の実存主義やポスト構造主義等の波にもまれて、今日ではグリーンブラットに代表されるような「動的な」(たとえば「文化的エネルギーの循環」といった考え方)世界像へと転換したかに見えます。ある意味では、戦前の逆を行くがごとくで面白いのではないでしょうか。少なくとも戦前の転換について中野は意識的でした。  そういう動的なルネサンス像において、ひときわ「興味深いのは旧い秩序意識から完全に開放された人間の登場」だとして、中野はキャシアス、エドマンド、フォルスタッフらの登場人物に注目しております。ただ、先に触れた「『現代物』の精神」という観点にこだわるならば、彼らはルネサンスという歴史的に特異な時代の落とし子にほかならず、歴史に超然たる「現代物」の超越論では、納得のいく説明がつかないのではないかという疑問は残らざるをえません。  「芝居としての面白さもわからずに、思想もへったくれもない」という、なにやら江戸っ子の啖呵を思わせる発言――ただし中野は愛媛生れ徳島育ちで旧制三高まで関西――を先に引用いたしましたが、シェイクスピアの「芝居としての面白さ」を日本の一般読者に分かってもらうためには、当然、現在とは違った当時の舞台構造を説明せずには済みません。ということで、都合4回(第8章;17章~19章)にわたって、当時に特有な劇場構造について述べることになります。さすがに芝居通の中野のことだけあって、堂に入ったもの、たんなる紹介にとどまらず、歌舞伎劇と能の舞台との見事な比較文化論的考察となっています。舞台構造とともに、「面白さ」を味わう上でおそらく必要となるという判断をしたのでしょうか、シェイクスピアの伝記についても3回分(第11章~13章)が割かれております。しかし、なにせ確たる伝記的資料の貧弱はご存知のとおり、簡にして要をえた語りの結末は、シェイクスピアというやつは、結局、実に「食えない男」だったに違いないという、ある意味で愛情たっぷりの、しかし中野にしてはおよそ凡庸な感想で締め括られるのでした。  さて、純粋に愉快で楽しい「面白さ」ということになりますと、中野の念頭にまず浮かぶのは、喜劇のなかでも『夏の夜の夢』、『ヴェニスの商人』、『お気に召すまま』などだと言います。それらの「もっともシェイクスピア的と考えられる一連の傑作喜劇というのは、、、ただ愉快に見て楽しむという、そうした喜劇として書かれた」(p. 131)のだと決然としたいいっぷりです。ただこれも中野のことですから、学者どもはたとえ生活がかかっているとはいえ、すべからく研究と称して世間には百害あって一理もない無駄な議論は止めるべし、という戒めと把るべきかもしれません。そうした喜劇のなかでも、「何をいちばんに採るかといわれれば、筆者は躊躇なく(「浪漫喜劇」のジャンルに属する)『十二夜』を挙げる(p. 143)と言って、その最大の理由が「全篇これほど音楽的雰囲気に包まれた喜劇はない」そして「終始これほど多く美しい愛の叙情歌、小唄でちりばめられている喜劇は、シェイクスピアにもない」(p. 144) からだと、意外にも中野の浪漫主義的な側面を覗かせるます。  一方悲劇では、一章すべてを費やして『ロミオとジュリエット』を論じ、この特異な悲劇の主人公は、一般に思われているように悲運の二人ではなく、「真の主人公ともいうべきは、激しい青春の情熱そのもの」に他ならないと、有無を言わさぬ大家の清清しい発言。わたくしなど、生涯一度でいいので、こう言い放ってみたいと思うことしきり。  さて話が喜劇から悲喜劇など他のジャンルに移るにおよび、『シェイクスピアの面白さ』の「面白さ」という、この書物にとっていわば金科玉条的なコンセプトに亀裂が入りはじめます。きっかけは、翻訳の問題です。
初期の「恋の骨折り損」、「ヴェローナの二紳士」など、また、、、ロマンスと呼ばれる悲喜劇――「シンベリン」、「冬の夜話」などは、どうも日本では無理のようである。前者は生々した言葉のシャレの面白さが、そのまま邦語にうつされないかぎり、興味は半減、いや、四分の三減するし、後者は、なんといっても作者創作力の混迷を含んでいるのだから、ぜひがない。(pp. 147-8))
『冬物語』については、「なんといっても作者創作力の混迷を含んでいるのだから、ぜひがない」と一刀両断、ただ唖然とせざるをえないのですが、より深刻なのは『シンベリン』です。その面白さはひとえに「生々した言葉のシャレ」の妙にあるだが、惜しむらくは、それを日本語に移し換えるのが至難の業。もしそれが叶わない場合には、肝心の「面白さ」はほぼ味わうことができないとまで言うのです。さらに最後の作品と考えてよい『あらし』についても、劇作家「シェイクスピアの内的発展と関連する哲学的、人生観的意義では」、翻訳を超えてわれわれの興味を惹きそうだが、「さて日本語の舞台にかけるとなると、どうであろうか」(148)と、ふたたび中野の判断は否定的です。この「日本では無理のようである」という翻訳限界説は、『シェイクスピアの面白さ』という書物の少なくとも前半部には顔を出さなかったテーマだけに、読者はやや虚を衝かれた格好となります。  いままでシェイクスピアの「面白さ」として論じてきたこと――①イキイキした言葉の豊穣とセリフの妙、②性格造形と心理表現の卓抜、③「現代物」の精神、④多様なジャンルとそれぞれに特有の魅力など――これらすべてが、いままで格別姿を見せることのなかった「原作と翻訳」の問題、つまり外国文学受容にとってはいかにしても無視できない問題のまえに、哀れなすすべもなくあえなく崩壊してしまう、そういう印象が拭えないのです。そればかりか、『あらし』の例が示すように、普遍的価値と目される「哲学的、人生観的意義」までもが、日本文化の環境ではほとんど伝達不能だろうというのですから、事は深刻です。  まことに言語と文化の壁は高く、幸運にもその壁を突き破って伝わる部分がわずかあったとしても、それは限りなく暗くまた頼りにならない。如是我聞ならぬ如是我観の文章として、「どこまでもシェイクスピアの面白さについて書くのであって、シェイクスピアの偉大さや深遠さについて書くのではない」という原則を掲げて始められた企画であったにもかかわらず、その肝心要の「面白さ」が、最後の最後になって、一枚岩では済まない状況に立ち至ってしまったのです。  果たせるかな、最終の第23章のメイン・テーマは、「文化の壁」にほかなりません。中野は言います、「かりにも文化ということになると、言語の壁をこえ、伝統的な感性、習俗、考え方等々といったものを乗りこえて、別の風土に移されるということは、決して簡単なことではない、、、(220)。よくある「文化の壁」の認識です。この認識から出発して、しかし、中野は、シェイクスピア理解をめぐって、互いに相反する二様の帰結を導き出します。「面白さ」をめぐって、彼の心は二つに分裂していまうのです。  一方では、「文化の壁」の越えがたきを、どうにもならない一つの真理として受け入れる道の選択を認めます。シェイクスピアの作品は、はるか昔の異国の文物であり、それをわれわれは母国語への翻訳という手段を介してしか受容できないとするならば、当然にして原作に近づくことは恐ろしく難しいだろう。そうだとするならば、それは「それだけのこと」(220)として、直視して受け入れる以外にすべはない。しかもそれは正しい見識にちがいない、とします。これはなにもシェイクスピアに限ったことではなく、一般論として、「わたしたちの外国文学理解」とは、そういうものであるしかなく、そして「それはそれでいい」(221)のだとする。この立場は、やや語弊があるかもしれませんが、「外国文学受容における民主主義と呼ぶことができるでしょう。シェイクスピア作品という遠い異国のはるか昔の時代に書かれたものを、なるべく多くの人々に読んでもらい観て楽しんでもらうことは、ひとつの重要な価値であると認めることであり、これに異存はないはずです。  しかし他方において、『シェイクスピアの面白さ』という本の、最終章にいたって、あたかも掉尾の勇を奮うがごとくに、中野はまさに180度反対のことを言い出すのです。 さて以上、ひどく筆者は日本人の、そして筆者自身のシェイクスピアということを強調したようであるが、これもまた妙に夜郎自大のひとりよがりに取ってもらっては困る。あくまで日本人として読む、などということを大きな声で言ったが、それは決して原作、つまり英語の原文で読むシェイクスピアを軽んじて言った意味では決してない。むしろ逆に、いささかキザな言い方になるかもしれぬが、やはりシェイクスピアのほんとうの面白さは、翻訳ではとうてい移しきれぬ、原作を、しかも細かく、綿密に読むこと(もちろん、機会さえあれば、出来不出来は別として、舞台で見ることが大切であるのはいうまでもないが)、でなければならぬと信じている。なるほどそれも、所詮本国人並みにはまいらぬ外国人の英語力で読むより仕方ないのだが、それにしても、翻訳で読むよりは、はるかに生きたハツラツさが伝わってくることはたしかである。(下線強調高田)(p. 222) これは余りにも唐突で、驚くべき発言といわねばなりません。自らここに告白しているごとく、「わたし自身に面白ければいいのだ」という趣旨のことを中野はしばしば繰り返してきました。しかし、その「わたし自身にとって面白い」ところというのが一様ではなく、実は二種類の「面白さ」に分裂したものだと、いまさらながら読者は知らされるのです。ひとつは、翻訳の問題がまだ前面に出るまえの次元での「面白さ」、つまり原作を読むための訓練を受けずとも分かる「面白さ」、そしておそらく西洋流の哲学や思想とは縁の薄い「面白さ」であって、それらは先に纏めましたように、①イキイキした言葉の豊穣とセリフの妙、②性格造形と心理表現の卓抜、③「現代物」の精神、④多様なジャンルとそれぞれに特有の魅力等々、すべてそのまま『シェイクスピアの面白さ』という書物の大半を構成しておりました。それに対して今一つは、「翻訳ではとうてい味わえない、原作を、しかも細かく、綿密に読むこと」を通じてのみ味わえる「面白さ」であって、これこそ「ほんとうの面白さ」であるとまで言われる。もとよりこの「ほんとうの面白さ」を享受しうる主体はといえば、(おそらく「心ある」)英語教師でもあり(抜群の英語力を誇る)英文学教授にしてシェイクスピアの専門家たる中野好夫以外のなにものでもありません。この立場は、先の「外国文学受容における民主主義」と呼んだものとの対比で言うならば、「外国文学受容における貴族主義」と呼ぶことができるのではないでしょうか。  ここでちなみに、シェイクスピア学者で中野といえば中野春夫先生であって、好夫などは知らんという世代の方々もすでに多数おられるかもしれませんので、中野好夫の英語力について、言わずもがなの確認をしておくのも、まんざら無駄ではないように思います。もとより私自身とて実際に会ったことがないわけですから、本当のところは分からないのですが、少なくともその著作と翻訳と知人の評を読んだ限りでは、ともかく恐ろしく英語がよく読めたとしか考えられないのです。シェイクスピア学者であれば、『ヘンリー四世』(第一部と二部)、『ヴェニスの商人』、『ロミオとジュリエット』の翻訳のいずれかを読まれた人も多いと思いますので、中野の英語の力量にかんして、いずれ贅言は無用と思います。とくに『ヘンリー四世』については、研究社の小英文学叢書の注釈ならびに岩波文庫の翻訳があり、これらは(私などが言うのもなんですが)秀逸そのもの。加えて、一時期中野が血道をあげたアラビアのロレンスことT.E ロレンスの『知恵の七柱』の翻訳にまつわるエピソードが、中野における英語の読みというものが如何なるものであったかを、よく物語ってきわめて感銘深い。すなわち、ある出版社から依頼されて「ポツポツ二百枚あまりはやってみたが、いまだにそのままS社の金庫の中で眠っているはずだ。(段落)理由はきわめて簡単である。ただ横のものを縦に直すだけなら、なんとかわたしの語学力でもできぬことはないと思う。だが、この本は、いわばロレンスがその魂を賭けた作品だと考えてよい。、、、魂を賭けた作品は、やはりその魂を移すだけの翻訳でなければならぬ」。かくして「投げ出してしまった」そうである(「読書遍歴から」、『英文学夜ばなし』[新潮社、1971年]所収)。しかも、これがすでに百戦錬磨の名翻訳家の口から出た言葉であることを思うとき、その英文の読みというものが、いかに凄まじいまでに洗練されたものであるか、およそ見当がつくというものでありましょう。(読みは宜しいとして、話す書くほうはどうかと訝しく思われる向きには、スタンフォードでの教授経験に触れた「翻訳雑話」(『英文学夜はなし』所収)を参照されたい。)  かくして、「シェイクスピアの面白さ」を巡って、中野の心にくすぶっていた分裂は、さいごに露呈するに至ったのでした。問うべきは、何故こうなったのだろうか、この分裂はいったいどこから来るのか、ということでありましょう。この問題に対する答えを得るには、さまざまな糸口があるかと思いますが、ひとつのヒントは、連載をしていたのと同時期に中野が何をしていたかをみることによって、見出されるのではないかと思うのです。といいますのも、この「面白さ」に見る「分裂」はどうみても根が深いものであり、およそ広く彼の生き方そのものにも、何某かのかたちで通じるものがあるに違いないと想像されるからです。  そこで、連載執筆時(1965年~66年)の彼の行動はいかに、ということになるわけですが、これに関しては目下のところ『中野好夫集』(筑摩書房、1985年)第8巻に付された「著作目録」に頼るしかありません。その文字通り膨大な目録に目を通しますと、彼が毎年というより毎月のように夥しい数の文章を生産し続けている有様がよくわかります。なかでも当該年のうち特に1965年の目録からは、6月に9月と矢継ぎ早に二冊の本が出されているのに注目せざるをえません。6月には新崎盛暉との共著になる『沖縄問題二十年』(岩波新書)が出され、9月には単著の『私の憲法勉強 嵐の中に立つ日本の基本法』(講談社現代新書)が続きます。つまり、この頃の中野は「シェイクスピアの面白さ」をめぐって連載を続行する一方、同時に沖縄問題と憲法問題という二大課題に取り組んでいたわけです。言うまでもなく、沖縄問題と憲法問題は、大戦後の日本が抱えていた、そして21世紀となった今日のわれわれも、なお殆ど全く同様に、そして根本的解決を見ることなく抱え続けている、二つの大問題にほかなりません。  いまここで、沖縄問題と憲法問題にたいする中野の立ち位置について、詳しく述べる事はできませんし、またその必要もないと思いますがが、とりあえず便宜的に沖縄問題に絞って中野がどのように関わり、どのような活動をしたかについて、そのさわりだけでも外延的に述べておくべきかと思います。ご案内のとおり、沖縄問題にかんしては、中野は筆ばかりでなく行動をもって精力的に活動を展開しました。まさにルネサンス的な「瞑想的生」vita contemplativaと「行動的生」vita activaの双方にわたる「万能の人」homo universalis の体現です。沖縄問題は、英文学やシェイクスピア研究のように社会の特定の人々を対象とするのではなく、社会にあまねく係る政治問題ですから、中野は一般に訴えかける啓発的な書物を(弟子でもあり盟友の新崎盛暉と共同で)世に問うことから始めたのでした。すなわち1965年に『沖縄問題二十年』(岩波新書)を、つづいて5年後の1970年にはその拡充版の『沖縄・70年前後』を、さらに増補して1976年には『沖縄戦後史』を出しました。今日、沖縄問題についての簡便で標準的なテキストを得ようとするならば、新崎盛暉『沖縄現代史』(岩波新書、2005)に就くのがおそらく常道だと思いますが、まさにその本の大元・土台は、ほかでもない1965年に中野のイニシアティヴで始められた共著『沖縄問題二十年』にあったのです。それだけではありません。それらすべての発端は、1960年の昔に、中野が私財を投げ打って設立した小さな「沖縄資料センター」に始まります(現在は法政大学付設)。そこを拠点として、すなわち沖縄問題に関連するさまざまな資料と精力的に収集し整理したのです。その成果の一端は、大判2段組765ページにもおよぶ『沖縄―戦後資料』(日本評論社、1969)となって残されました。そのほかにも1972年に上梓された『沖縄と私』は、すでに沖縄問題の古典とされております。すなわち、実証(考証)主義者としての中野好夫の見識と行動力により、沖縄問題はその基礎資料が用意され、文明批評家としての中野好夫の構想力によって、戦後沖縄史が始めて書かれた、といって過言ではないのです。  そろそろ話題的に笑いがとれなくなりましたので、お開きにむけてラストスパートしたいと思います。最後に問うべきは、なぜ中野は沖縄問題のような政治社会問題に、身を挺して取り組んだのか、ということです。人間のすることですから、要因はさまざまでありもとより名状しがたい、しかしひとつの明らかなきっかけは、終戦直前のあの悲惨な沖縄戦が戦われた際に、その地の知事を務めていた島田叡(あきら)という人物がいたということです。そしてたまたまこの高潔な人物は、旧制三高時代に中野が属していた野球部の一年先輩だったのです。伝記をこよなく愛する中野は、島田を個人的に知り尊敬していたこともあって、沖縄戦における島田の言動について調査すると、1956年(2月号)の『文藝春秋』に「最後の沖縄県知事」という記事を書いたのでした。  要するに、あの大戦を体験して生き残り、敗残の身にあって大戦の悲惨さを再三確認して、なお良心の呵責に忍びないといった運命を背負った世代の一人として、中野は生きなければならなかったということです。ただ中野好夫の場合には、その精神的バックグラウンドとして、自身大学入学を境としてキリスト教を棄てたとはいえ、熱心なキリスト教であったらしい母親譲りの強烈な正義観を受け継ぎ、加えて英文学をはじめとする西洋の文物をとおして、おそらくは西欧流の市民とか個人というものに通じる反骨精神や批判精神を身につけていたのでしょう、いわゆる戦争責任というものに対する受け止めかたがおよそ尋常でなく、きわめて透徹したものであった、と推察するのです。  そこで、長い話を短くいたしますと、日中戦争から太平洋戦争に至るあの暗い時代に、中野は東京帝国大学助教授(1935―47)であったわけですが、後にその戦時中のことを回顧するに、たしかに積極的に体制擁護はしなかったとはいえ、しかし体制批判もまた等しくこれを積極的にすることはなかった、このことを戦後に中野は徹底的に反省し、心から悔いたようです。そして二度とあのような戦争をしない国にしなければならないと深く思いをいたし、そのために出来る限りのことをしようと心に決める。しかも心で悔い決めるだけでなく、身をもって行動しなければ意味がないと思ったのでしょう。かくして決