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2024年度 シェイクスピア祭が開催されました
2024年度のシェイクスピア祭が開催されました。多数のご参加ありがとうございました。
2024年4月20日(土)、早稲田大学戸山キャンパス
13:00 開会の辞(篠崎 実 日本シェイクスピア協会会長・千葉大学教授)
13:10 講演 末廣 幹氏(専修大学教授)「‘you have been mistook. / But nature to her bias drew in that’.――シェイクスピア喜劇における登場人物の交換をめぐって」
*** 休憩***
15:00 トーク 鵜山 仁氏(演出家・文学座)「歴史劇から喜劇へ、そして悲劇へ」
聞き手 近藤 弘幸氏(東京学芸大学教授)
16:30 閉会の辞(阿部 公彦 日本英文学会会長・東京大学教授)
末廣幹氏講演要旨
シェイクスピアは、古代ローマの喜劇作家プラウトゥスによる喜劇『メナエクムス兄弟』から、特定の登場人物の意図や策略に基づいて展開していない、登場人物の交換と誤認のプロットを学びながらも、『間違いの喜劇』におけるアンティフォラス兄弟の交換と誤認のプロットは、観客の笑いを引き出すためだけのナンセンスな設定にはしていない。この喜劇におけるアンティフォラス兄弟の交換と誤認のプロットでは、兄であるエフェサスのアンティフォラスが一方的に不利益を被るのとは対照的に、弟であるシラキューズのアンティフォラスが多大な利益に与っているからだ。しかし、この喜劇では大団円において、父イジーオンとエフェサスの尼僧院長になっていた母エミリアとの認知による一族再会のロマンスが前景化されハッピー・エンディングを迎えることで、アンティフォラス兄弟の間の残酷なまでの格差は舞台上では贖われることなく終わっている。他方で、『十二夜』では、セバスチャンとシザーリオに男装したヴァイオラの交換と誤認のプロットを通じて、オリヴィアがシザーリオに抱いていた潜在的な同性愛的欲望はセバスチャンとの異性愛的結婚に向けて方向転換されることで、ジェンダーとセクシュアリティの混乱は解消され、2組のカップルの結婚へと収斂することで家父長制がむしろ強化されるような結果を示している。『尺には尺を』では、『間違いの喜劇』と『十二夜』とは異なって、公爵ヴィンセンシオウが交換と誤認のプロット(ベッド・トリックとヘッド・トリック)を陰謀として企てるプロセスに焦点を当てることによって、登場人物たちが、劇作家的な立場の権力者によって陰謀のコマとされる不条理を浮かび上がらせている。その意味で、『尺には尺を』は、交換と誤認のプロットに基づいて創作を行ってきた劇作家シェイクスピアの自己省察、あるいは自己批判さえも込められた作品だとは言えるだろう。
(付記:トークでは、思いがけなく、鵜山仁氏に『尺には尺を』の演出と観客反応についてコメントいただくことができた。ここで改めて感謝申し上げたい。)
鵜山仁氏トーク
近藤 本日、鵜山仁さんのお話の相手を務めさせていただきます近藤と申します。どうぞよろしくお願いいたします。まずは鵜山さんのご紹介ですが、1953年、奈良県大和高田市生まれ。慶應義塾大学文学部フランス文学科卒業、舞台芸術学院を経て文学座附属演劇研究所に入所。現在、文学座演出部所属。2007年9月から2010年8月まで新国立劇場の第4代演劇芸術監督を務める。1989年に芸術選奨文部大臣新人賞、2002年に紀伊國屋演劇賞、2004年、10年、16年に読売演劇大賞・最優秀演出家賞。2010年に芸術選奨文部科学大臣賞、20年に紫綬褒章、21年に毎日芸術賞を受賞。主な演出作品に『グリークス』(文学座)、『父と暮せば』(こまつ座)、『ヘンリー六世』『リチャード三世』『ヘンリー四世』『ヘンリー五世』『リチャード二世』(新国立劇場)など。最近の作品に『連鎖街のひとびと』(こまつ座)、『二階の女』(NLT)、『花と龍』(文化座)などがある――ということになります。現在は文学座の代表でいらっしゃいます。
実はこれ本当に大胆な試みなんですけども、鵜山さんと直接お会いしてお話するのは今日が初めてでして、事前の打ち合わせをほとんどしていないなかで、今からどうやって90分頑張っていこうか、と必死になってる状況なんですけれども、一方で勝手に一方的に鵜山さんに親近感を抱かせていただいている部分があります。1つはもちろん僕自身がシェイクスピア研究者であり、とりわけ上演研究であるとか受容研究――日本のなかでシェイクスピアという人がどのように受け入れられてきて定着してきたのか、日本文化の一部となってきたのか――というようなことをやっておりますので、鵜山さんのお仕事はシェイクスピアだけではないんですけれども、シェイクスピアに関しても大変たくさんの上演を精力的に手がけられているということで、そのシェイクスピアに対する関心っていうところで、もちろん共通点があるなと思っているというのが1つ目です。これはありがちなやつで「3つのなんとかがあります」って話なんですけども、1つ目がシェイクスピアへの関心ということです。2つ目は、これ本当に完全に個人的なことなんですが、私も奈良県生まれです。なんとなく奈良県って微妙なんですよね(笑)。なんか大阪でもなくて京都ではなくて奈良っていう。でも俺たちが一番古いんだぜ、みたいな。なんかその辺がシェイクスピアに興味を持つところと、もしかしたら関係があるんじゃないかとか、あるのかないのかよくわかりませんけれども、2つ目は実は同じ奈良県ですということで、僕は奈良市です。
鵜山 ああ、そうですか。
近藤 ローカルな話で申し訳ありません(笑)。もう1つ共通点があると僕は思ってるんですけども、その話はちょっとあとでご紹介させていただきたいと思います。今日のお話の流れなんですが、一応こんなふうにお話をお伺いしていければなと考えております。最初に改めてシェイクスピアとの出会いどんなものだったのかお聞かせ願えればなと思います。そのあと、歴史劇シリーズですね、新国立劇場における2009年から2020年までの長期にわたるプロジェクトがあって、そのお話をお伺いしたいと思います。この頃は鵜山さんイコール歴史劇というイメージがあって、以前にシェイクスピア祭にお見えいただいたときも、歴史劇の話を中心にお伺いしたかと思います。しかし一転して昨年は喜劇に集中的に取り組まれて3本の喜劇を上演されています。先ほど前半の末廣先生のご講演にも出てきた『尺には尺を』を含めたお芝居です。今年は6月に、先ほどチラシが皆さんにお配りされているかと思いますけれども、文学座で『オセロー』を上演なさるということで、『オセロー』の話を最後にお伺いすることができれば、という組み立てでお話を伺っていければと思っております。
早速なんですけれども、いきなりシェイクスピアとの出会いを語れと言われても、なかなかどう答えようかというところかもしれないんですけども、初めてシェイクスピアという名前を聞いたでもいいですし、何か読んだでもいいですし、何かそういうシェイクスピアとの出会いに関するエピソードがあればぜひお伺いしたいと思います。
鵜山 またローカルな話になって恐縮なんですけど、中高、僕は、学校は奈良市だったんですよ。それで変な学校で、1年に3日ぐらい文化祭があるんですけど、そのなかで11本とか12本とか芝居やってるようなとても変な学校なんですよね。そこでシェイクスピアの芝居だと称して不思議なことをやってる舞台を見てたんですけど、本格的にって言うか、読んだり見たりしたのは、出版でいうとあれですかね、新潮社の世界文学全集で福田恒存訳の、もちろん全集じゃないんですけど、喜劇、悲劇っていうのは読んだのが最初だったかなあと思います。上演で言うと、劇団雲っていう劇団がありまして、芥川比呂志さんが――奈良出身だから東京にちょっと出てくるわけにいかないんで、大阪へ芝居を見に行ったりするんですけど、『リア王』とかやってらした時期で、体を壊されて、肺を悪くされて慶応病院に入院されたのが出てこられて、それでやったので「片肺のリア」とかそういう言われ方をした『リア王』だったんですけど、それを見たのが、プロフェッショナルなシェイクスピアは初めてですかね。
そのあと、東京へ出てきて、ちょうど18で東京に出てきて、シェイクスピアシアターの時代という、文学座の先輩で出口典雄さんという演出の方がいらしたんですけど、これが渋谷のジャンジャンという、今のアップルストアの向かい側にあった地下の空間で、結局あそこで何本やったのかな、ほぼ小田島雄志訳のシェイクスピアの初演っていうのはあそこでやられてたんじゃない思います。毎月毎月新しい芝居がかかって、それで1000円ぐらいの入場料で見に行けたもんですから、割とそこにずっと通ってたっていうことがあって。だからいまだにあれなんですけども、僕のシェイクスピアの顔、シェイクスピアをイメージすると、顔の半分ぐらいは小田島雄志っていう話になってるのはそのせいだと思うんですけど、要するにその20代のその時期、シェイクスピアが割となんていうかな、そんなに難しい感覚じゃなくて肌であの言葉を浴びてたっていう時代が、そういう小田島先生の時代だったものですから。あと小田島先生で覚えているのは、僕、慶應なんですけど、慶應の学校で、高橋康也先生が後期で、前期に小田島先生がいらっしゃっていて、「シェイクスピアについてひとこと」って言って「いろいろ人が死ぬ芝居を書いたんで生まれた年は「ひとごろし1564」」と、それで「いろいろ書いて死んじゃったんで、1616年ですから「いろいろ」」と。だからそうじゃなくてもシェイクスピアの生没年ぐらいは覚えているものだと思うんだけど、それ以来ちゃんとインプットされているのは、小田島先生には申し訳ないですけど、そのことだけはがっちり頭のなかに入ってますけど、そんな感じですかね。
近藤 実は僕も、最初に本格的にシェイクスピアに出会ったのって小田島雄志先生の授業なんですね。2年生のときに『マクベス』を読むっていう授業だったんですけれども、あとあとお伺いしたら、実は授業でシェイクスピアを読んだことはなくて、シェイクスピアを読んだのはその1回だけだっていうお話で、僕はたまたまそこで『マクベス』を読んだことがきっかけで、結局英文科に進学し、シェイクスピアで卒論を書き、その結果シェイクスピアで修論を書き、しかもなんと修論が結構マイナーな作品だと思うんですけど『終わりよければすべてよし』っていう感じでシェイクスピアに入っていったので、なんか今のお話を伺って、なるほどと思ったんですけど、やはりそのなかで、今日、もうちょっとあとでお聞きしようかなと思っていたんですけど、お名前が出たので。最近はシェイクスピアの上演って言うと、翻訳に関しては、割と松岡和子先生の訳に置き換わっているものが多いかなと思うんですけれども、鵜山さんは一貫して今でも小田島訳を使われているっていうのは、やっぱりこの最初のイメージが強いっていうことなんでしょうか?
鵜山 そうですね。なんかもう注釈、あの河合先生にしても松岡さんにしても、すごい丁寧に施していただいてるので、それを参考にさせていただいて、それで、こう言っちゃなんですけど、雄志先生は「どうでも変えてちょうだい」というふうに現場にキャスティングボートを譲ってくださるんで、それをいいことに、そんなに切ったり貼ったりしてるわけじゃないんですけど、いろんな翻訳を繋ぎ合わせてやってるみたいに聞こえたらそれは違うんですけど、箇所箇所参考にさせていただいてやってはいるんですけど、やっぱりその、20代の影響が大きいんですかね。
松岡さんの翻訳で言うと、松岡さんの『リア王』の初訳は確か1997年の新国立劇場開場のときで、そこで『リア王』を松岡訳でやらせていただいたんですけど、このときは面白い話があって、山崎努さんがリアをやったんですけど、山崎さんと事前に打ち合わせしながら、「じゃあ松岡先生に翻訳をお願いしよう」ということになって、それでもう週1ぐらいの感じで山崎さんのうちへ伺っていろいろ打ち合わせをしてたら、もういろんな翻訳を繋ぎ合わせてどんどん台本を御自身が書いちゃうんですよね。それでそのうち「鵜山君、新しい翻訳はいらないかもしれない」とか言い出すんで、「いやいやいやとんでもない」ってことで、ちょっとその辺はまだ松岡訳が上がってなかったもんですから、どうすればいいのかなと思いながらおたおたしていた覚えがありますけど。幸い松岡さんの翻訳を、我々、なんて言うんですかね、評価して受け入れてっていう共有ができたんで、無事にうまく収まったという経緯がありました。
近藤 やはり実際の上演では、そういう形でいろんなことを交通整理しながらやっていかなきゃいけないんだろうな、本当に大変だろうなと思います。非常に興味深いお話を伺えたなと思います。時間も限られていますので、あとでまた翻訳の話を伺うこともあるかもしれませんけども、新国立劇場での歴史劇シリーズですね、『ヘンリー六世』3部作から始まりまして、『リチャード三世』、『ヘンリー四世』2部作、『ヘンリー五世』、『リチャード二世』まで。これ一応なんて言うか、教科書的なことをまず復習しておくと、シェイクスピアの執筆順で言うと、まず『ヘンリー六世』3部作、その次にその続編の『リチャード三世』を書いていて、第1・4部作と呼ばれているものです。これは新国立劇場での上演の順番の通りということですかね。その次にシェイクスピアが書いたのが、薔薇戦争の原点を描いた『リチャード二世』、リチャードから王位を簒奪したヘンリー四世の治世を描いた『ヘンリー四世』2部作、その息子がアジンコートの戦いでフランスを破る『ヘンリー五世』の、いわゆる第2・4部作です。歴史上の順番だと、『リチャード二世』、『ヘンリー四世』、『ヘンリー五世』、『ヘンリー六世』、『リチャード三世』となり、リチャード三世を倒したヘンリー七世によってチューダー朝が始まる、そういうイギリスの歴史、大河ドラマを上演されたということになります。今日は資料代わりに『リチャード二世』のプログラムを持ってきたんですけど、そのなかで鵜山さんがシリーズ全体を総括なさっています。まず『ヘンリー六世』からお伺いしようと思うんですけど、これ僕も見に行って、「なんで東京に住んでんのに一挙上演上映の日に来ちゃったんだろう、2日に分けて見ればよかった」って思ったんですけれども、あれだけの大作を一挙上演しようっていうことに関して伺えますか? 鵜山さんはあれですよね、冒頭にご紹介したプロフィールにもありましたけれども、例えば『グリークス』をなさってたりとか、大作を上演するのがお好きなんでしょうか?
鵜山 新国立劇場の芸術監督やってた時期の話なんで、年間6本ぐらい企画立てなきゃいけないんですけど、3本いっぺんに決まっちゃうと楽だなってこともあって(笑)。長尺物が好きだってこともあるんですけど、自分がなんか起動が遅いからですかねそれは。徐々にこうやってだんだん温まって、みんな温度が高まっていくっていう雰囲気が好きだってこともあるんですけど。なにしろちょっと現実的には3本いっぺんにやってしまえと。ましてやあまり知名度のない作品だから、もうそれこそ制作部からは散々非難されまして、「こんなんでお客さん入ると思ってるんですか」って言われました。ところがやってみたら、新国立劇場ってのはオペラをやってるんで、連続上演化について割となんて言うんですかね、受け入れる感性があるというか、そういう会員のお客さんたちも多かったのかわかんないですけど、割とあの売れ行き好調ということで始まったんで、なんか幸い、いろんな意味で楽しめたんですけど、ちょっと稽古やってみたら大変でしたそれは。丸2ヶ月ぐらい朝の10時から夜の10時ぐらいまでずっと稽古やってる感じなんですけど、だから要するに現実生活とフィクションの時間とが、大げさに言えばひっくり返っちゃうという感じなんですね。そうすると結構面白いことが起こるので、山手線に乗ってても、この人は赤薔薇の人か白薔薇の人かとか考えちゃう。本当にそうなんですよ。だから逆に遠い歴史劇の世界が簡単に言えば身近に入っていくっていうか。上演にかかる前に、春先に舞台装置家の島次郎さん、もう亡くなりましたけど、ご一緒に取材旅行というようなことを英仏やったんです。ウェイクフィールドとかセント・オールバンズとか、古戦場を巡っていったんですけど、これ向こうで「あの戦いの場所はどこですか」って聞いても、現地の方は全然よくわからない。確かヨークの首塚があの辺にあったかもしれないっていうぐらいのことは知ってらっしゃるんですけど。そこで学んだのは、もう当たり前みたいな話ですけど、戦場ってのはないんだと、むしろ戦場とは偏在してるんだと言ったらいいか、戦争やればそこが戦場になるという感じですかね。そういう意味で戦場は日常の隣にあるんだ、みたいな感覚で東京へ帰ってきて、それで稽古をやってみたら、そういうわけで山手線がテンプル法学院に見えてくるっていう感じですからね。そして同時にテンプル法学院の庭で赤薔薇、白薔薇を摘んだという何かすごく他愛のない話みたいなのが、これはまたもうどこの世界にもあるような、何かある種の権力闘争っていうのはなかなかこんなもんだったりするのかもしれないみたいな、ちょっとリアリティに結びついたっていうことがあって。それもこれも1日中ずっとその2ヶ月に渡って稽古してた、そういうなんかバイオリズムみたいなものが影響してるのかなって思わなくもないんですけど、なかなかそれは楽しい経験でした。
近藤 最初に親近感を覚える点が3つあるって言って、2つ、シェイクスピアへの関心と奈良生まれっていうことをお話したんですけど、実は3つ目が3部作っていうことなんです。どういうことかと言いますと、鵜山さんもエドワード・ボンド、つい最近亡くなってしまいましたけれども、イギリスの劇作家エドワード・ボンドの『リア』をご自身で翻訳して上演なさっているかと思いますけども、彼が『戦争戯曲集』という超巨大な3部作を残しています。それを座・高円寺っていう、去年まで佐藤信さんが芸術監督をしていた劇場で上演しているんですね。佐藤さんは実はもともと僕の同僚でして学芸大にいたことがあるんですが、この座・高円寺に劇場創造アカデミーという2年制の演劇学校があるんですけれども、その修了上演として、普通だったら『ロミオとジュリエット』とかやりそうなところなんですが、そこが佐藤信の佐藤信たる所以というか、このエドワード・ボンドの超大作をやりたいっていうことで、3部作を一挙上演すると全部で多分8時間ぐらいかかるんですけども、それを訳してくれって言われて訳しまして、最終的には10年ぐらいかけて、最初は第1部と第2部だけを上演して、最後には3部作を一挙上演するっていうようなことをやって、本当に1日中劇場にいて、来たお客さんに「長すぎる」って怒られるっていうことを、僕も実際に経験してますので、そういう意味でそこが実は3つ目の親近感ということになります。この3っていう話の流れじゃないんですけれども、さっき申し上げました『リチャード二世』のプログラムでシリーズを振り返るお話のなかで、演劇と3という数字の関係についてちょっと話してらっしゃるんですけども――
鵜山 そうですか。
近藤 覚えてらっしゃらないですか? 『ヘンリー六世』3部作っていうことで、3っていうのはこういうことなんだ、みたいなことをおっしゃってます。演出の仕事は弁証法なんだ、つまり正反合があって、みたいなことを話してらっしゃるんですけども、演劇と3っていまさら聞かれても困りますか?
鵜山 演出って何してるのって言うと、指揮者ならテレビに出てても背中が映ってるからこれわかりやすいんですけど、舞台演出って何してんのって非常に説明に困るし、自分でも時々何してるんだろうっていうふうな疑問にとらわれるっていうか、背後霊みたいな仕事なんですけど。だからつまりなんて言うかな、「ダメだし」って言うんですけど、役者がなんか表現してAっていう表現があって、それで自分はちょっと違うな、Bかなと思ったら、答えはCって出した方がいいっていう、かっこよく言えばそういう話なんですね。AかBかで揉めるのも面白いんですけど、結果ちょっと違う地平に飛躍できるっていうか、Cって答えを出すっていうことがちょっと醍醐味みたいな気がして。これはもう台詞のやり取り自体がそうなんじゃないかと思うんですけど。こういう呼吸で出てきた台詞に対して、ちょっと思いもつかないようなこういう呼吸で返ってきて、それが新たな発見に繋がる。そういう意味では、芝居を作っていくこと自体が弁証法的といえば弁証法的なものがある。
僕の欲望は、ただ「いい声を聞きたい」とか「いい表情を見たい」とかそれだけなんですね。じゃあ「いい表情とか声って何?」って言われると、それはやっぱりコミュニケーションというか、自分以外のものに触発されて変わるっていう。自分以外のものに触発されて変わり続ける、芝居の最初の1行から最後の1行までずっとその変化が持続するというか拡大していくっていうか、そのことだけを求めているみたいなところがあって、まあ発見したいわけですけど。せっかくライブでやってるんだから。ライブという言葉を濫用してはいけないですけど、エンターテイメントとしてはやっぱりライブのやり取りが刻々変わっていかないと飽きちゃいますよねっていう。そこに最終目的を見出してやっているっていうのが芝居の醍醐味だし、演出って仕事がやることってのはそれに尽きるんじゃないかなと思っているところがあります。
近藤 3っていう数字って本当不思議な数字で、シェイクスピアに関しても魔女はやっぱり3人いるわけですし、娘は3人いるわけですし、それから婿選びは3つの箱を選ぶっていうわけですよね。演劇の歴史っていうか、例えばギリシア演劇の歴史を考えてみても、初めはコロスだけでやっていたのに、そこに1人俳優を入れてみようってテスピスがやって、それを2人に増やそうってアイスキュロスがやって、そこで多分ドラマっていうのが初めて成立するようになるわけですね。つまり2者間の対立とその解消っていうのが基本的なドラマの構造ということになります。それでドラマというものが成立して、ただそれだけだとまだ単純だったのが、ソポクレスが3人目を投入したことによって、描ける関係性っていうのが一気に複雑化するわけですよね。例えば大げさな言い方をすれば、3って民主主義が可能な最小の単位ですよね。つまり2だと強い方が勝つわけですが、3になると弱いものが手を組んで強い1人を倒すことができるようになってくる。そうやってそこで描かれる人間性とかコミュニケーションのあり方っていうのが一気に多様化するっていうのが3っていう数字で、そういう意味でやっぱり3って確かに本当に不思議な数字だし、演出というお仕事のなかでも、やっぱりそういう3っていうのがどっかそこで出てくるっていうことなのかなと、今お話をお伺いしていて思ったんでけども。
鵜山 作家っていう面倒くさい存在がいて、それで役者ってこれもまた面倒くさい存在がいて、僕はなんなんだろう? 精霊みたいなもんですかね。三位一体っていう(笑)。
近藤 なるほど(笑)。あと歴史劇っていうことで言うと、僕は以前から是非伺いたいなと思っていたのは、歴史劇ってやっぱり演説っていうのがつきものだと思うんですけども、どうも演説の場面ってあんまり出来が良くないと思うことが僕は個人的に多くて、それはなんでなんだろうということをずっと考えてたんです。先程の翻訳の話とも関わってくるんですけども、なんで日本のお芝居で演説の場面ってなかなかうまくいかない気がするのかなと思ったときに、僕自身ささやかながらお芝居の翻訳をやっていて、実はそもそも日本語に演説の文体がないんじゃないかっていうふうに今思っていて。だから現実世界に演説が存在しないから、お芝居のなかにも演説が存在しないんじゃないかっていう気がするんですけど、なんか演説の場面の作り方とか、あるいは翻訳も含めて言葉の問題とか、何かありますかね?
鵜山 僕が勝手に思い込んでるだけかもわかんないですけど、シェイクスピアやってた発見の1つは、すべてがダイアローグだっていうことですかね。モノローグってのはない。つまり目に見えない対象、神であれ、太陽であれ月であれ、敵のバッキンガムであれ、そことの対話なんですよね。だからさっき申し上げた正反合っていう弁証法みたいなのは、モノローグのなかでも起こる。ここから言うと高田馬場ってどっちの方角でしたっけって言うときに、高田馬場とキャッチボールして、高田馬場の方向性、高田馬場との関係性みたいなことを可視化していくというか、それを共犯者として認知していただくっていうのが、僕らの仕事なんで。そういう意味ではなんと言うかそういう言葉の広がりみたいなことをダイアローグとして捉える、ドラマとして捉えるってことをやっていかないと、退屈しちゃうんですよね。1人で喋っててくれても退屈っていう感じなんですけど。それを何についての、誰についての、どういう感情なのかっていうことを、説明するんじゃなくて、表情とか音とか声とかで感じさせてくれるっていうのが大事なことで。だから近藤先生の言い方で言えば、ひょっとしたら日本語にダイアローグがないっていうことかもしれません。
近藤 政治の言葉のなかにダイアローグがないっていうことなのかもしれないですね。ですから政治の言葉が語られるときに、なんかそうなんですよね。どこかに聞き手を想定して、その聞き手に語りかけているような言葉の強度みたいなものが、残念ながら今の政治の世界には、もしかしたらちょっと欠けているのかもしれないですね。演説が演説として成立しないのはもしかしたら、今おっしゃったようにちゃんとダイアローグになってないからっていうことなのかもしれないです。なんかそういうところがものすごく難しいところだなっていうのは、翻訳していても、演説的な台詞ってものすごく翻訳しにくいなっていうのを感じているので、その辺、せっかくの機会なので伺ってみました。
歴史劇についてもっといろんなことをお伺いしたいんですけども、最後の『リチャード二世』に話題を変えたいと思います。この作品は2020年っていうことで、多分劇場にいらっしゃった方はたくさんいらっしゃると思うんです。僕も行ったんですけど、コロナがあってしばらく上演が止まっていて、それがこの頃確か東京芸術劇場でプルカレーテの『真夏の夜の夢』があって、新国立劇場でこの『リチャード二世』があって、少なくとも僕にとっては、なんか久しぶりにやっと劇場に行けるっていう思いがすごくあった上演だったんですね。すごく楽しみにしていて、舞台を拝見して、舞台は大変素晴らしい舞台で、久しぶりにこうやって生の舞台が見れて嬉しいなと思った一方で、やっぱりこのときってまだ例えば客席は間隔を空けて座っていたり、それからロビーで飲食店が営業してなかったり、終わったらさっさと帰ってみたいな感じで追い出されたりで、なんかすごくいい舞台を拝見したのに、「いや私が求めていたのはこれじゃない」っていう感じがすごく強くあって。つまり演劇ってやっぱり舞台本番そのものだけではない。劇場に行く前の高揚感であったり、ロビーに入って知り合いと会ってお喋りをしたり、あるいは客席で客電が落ちるギリギリまでお喋りをしていたりとかっていうことのなかに演劇っていうのがあるわけで、そういうものがそぎ落とされてしまうと、すごく楽しいのだけれどもちょっと物足りないみたいになるんだなっていう思いをすごく強くしたんですけども、その辺りのコロナ禍での演劇とか公演みたいなことに関して、客席の側にいた私はそういうふうに感じてたわけですけれども、作り手の側にいらっしゃった鵜山さんはどんなお気持ちでしたか?
鵜山 そういう客席と舞台との関係とか制作的な事情とか、いろいろ諸々あるんですけど、僕、すごく身勝手に、やっぱり衝撃だったのは、例えばですね、夏の高校野球が急になくなっちゃったっていうことがありまして。朝日新聞と夏の高校野球は永遠だと思っていたんだけど、そうじゃないらしいというのがわかって、それもしかも何か電子顕微鏡でしか見えないような、そういう生物だか無生物だかわかんないような存在が、何かそういう盤石の基盤、社会のシステムみたいなことを揺るがしてしまうのかっていうことがすごい驚きだったんですよね。それまでも、芝居やってるわけですから、いろんな意味で目に見えない存在ってことには多少アンテナ張ってたつもりなんですけど、とにかく目に見えないものが目に見えるものを支配してるっていう、これは一体……
今日そういう話もちょっと僕の方から伺ってみようかと思ってたんですけど、シャドウとサブスタンスっていう、影と実体って話がありますけど、これは一体なんなんだ、というようなこととか、夢と現実みたいなことであるとか。つまりなんかむしろ夢の方が現実を覆してしまうみたいな状況ですよね。だとするとなんかね、その見えない世界とどうやってコミュニケーション取るかっていうことについて、演劇は演劇で、アートはアートで、それができなきゃ嘘なんじゃないかっていうふうに思って。さっきの演説の話とちょっと繋がるんですけど、例えば太陽とか月とどうやってダイアローグするのか、これがなんか芝居でやんなきゃいけないことなんじゃないかって思っちゃったんですよね。『ロミオとジュリエット』で、これも小田島訳なんですけど、「向こうは東、だとすればジュリエットは太陽だ、登れ美しい太陽」っていう台詞があるんですけど、このときに、ジュリエットは太陽みたいなもんだってことじゃなくて、太陽が出現してくれなきゃ困るって言うか、太陽が登場してほしいって言うか、太陽っていうのを体感するっていうことを届けなきゃいけない。言ってみればこの台詞ってのは、ほぼ呪文みたいなもので。今、言葉のそういう機能ってのはすごく薄れてますけど。映像が代替してくれたりとかいろんな事情があるから、科学も進歩してるからそんなもんじゃないってすぐ言われちゃうから、そういう機能は薄れてるけど、本質的にはその目に見えないものを、太陽、月、宇宙を含めて呼び込むというか、それと共生していくっていうときの表情とか声とかっていうのを伝えるのがやっぱりライブの芝居がやんなきゃいけないことだなという妄想にとらわれてしまいまして。これはおかしいですかね(笑)。つまり呪文性って言うか、そういうことが17世紀、18世紀当時どういう形で、映像もないときに、地球以外の惑星の写真もわかんないときに、どういうふうに捉えられていたのかな、みたいなことがすごく気になって、それをちょっと『リチャード二世』の時には幾分回復できないかなと思ってやってた覚えはあるんですけど。
近藤 今伺ったお話が、次のお話のまさにいい導入になるのかなと思って伺っていました。昨年の夏になさった『夏の夜の夢』っていうお芝居は、そういう意味でいうと虚と実が入り混じると言うか、あるいは先ほどの末廣先生のお話ともちょっと関わってきますけれども、そういうなんか入れ替わるとか、そういったことと関わりがあるお芝居っていうことになってくるのかなと思います。この『夏の夜の夢』に関しては、実は文学座さんの方から映像をご提供いただいておりますので、ちょっとそのさわりをご覧いただこうかなと思います。ご覧いただくのは第2幕第1場のタイテーニアとオーベロンの諍いのくだり、初めてパックが登場するところです。
文学座公演『夏の夜の夢』の舞台映像視聴
近藤 全然4人の恋人たちが出ない場面を選んだんですけれども(笑)、なんでこの部分を選んでご覧いただいたのかって言うと、まあいくつか理由が一応あるんですけども、1つは公演のプログラムやチラシのキービジュアルになっているイメージがプロジェクションで最初に出てくる場面だということです。あともう1つ、この場面は映像が引いた絵になっているので、舞台美術がどのようになっているのかが割とわかりやすいというところで選んでみました。舞台上にはいわゆる額縁というかプロセニアムみたいなものが前後に3つ並んでいるんですが、一番奥が一番小さくて、そこから手前に向かって大きくなっていく3つの額縁があるような形になっています。おそらく3つの世界がちょうど入れ子構造になっているって言うか、一番外側に妖精たちの世界、オーベロンとタイテーニアの世界があって、その次にアテネの人々の世界があって、その内側に劇中劇の世界がある、っていうような感じになっているのかな、というふうに考えたりするわけですけども、この舞台美術に関して、何か意図とか、お話いただけることがあればお伺いしたいのですが。
鵜山 日生劇場でやられた伝説のピーター・ブルック演出って僕見てるんです。それをパクろうってことで始めたんですけど、誰もわかってくれなくて、どこがブルックなんだっていうことになっちゃったんですけど(笑)。あとすごいインフラの話をしますと、ああやって全部白で埋め尽くして、結構な厚い板で囲うためには、お金が結構いるんですね。だから全部そういう作りでやっちゃうっていうこと自体、今はすごく具材が値上がりしてるってこともあって大変だから、坪数をなんとか減らせないかみたいな話になっちゃうんですけど。これはだから、3つの鳥居がある空間というのか、それとやっぱり理屈を言えば、さっき楽しいお話をいろいろ聞かせていただいたんですけど、末廣先生のお話のなかでもメタシアターってのが出てきましたけど、メタメタメタシアターですかね、これね。だからそういう意味じゃ文字通り3つぐらい作って――また3つで恐縮なんですけど――それを作っておけば、対立もひっくり返しも効くだろうみたいな、そういうヤマ勘で始めてみた感じですね。
近藤 あと僕これ拝見していてすごく興味深いなと思ったのは、こうやって3つの枠があってそれがだんだん小さくなっていくっていうのは、いわゆる一般的に言うと遠近法っていう形ですよね。遠近法っていうのは、普通は平面の上に立体を再現するために使われるわけですけども、それがここでは実際に遠くにあるものがサイズも小さくて、見ていて遠近法がバグるというか。逆に、実際に遠くにあるものが、まるであたかも近くにあるように、平面の上の遠くであるかのように見えてきちゃう、っていうところがあって、奥行きを逆に感じさせないような結果になっちゃうっていうのが、なんかこのお芝居の中身とリンクしてるのかなっていうふうに思ったりします。さっきの話じゃないですけども、表面と中身とか影と実体みたいな話になってきたときに、やっぱりこの芝居も、何かその表層とか表面みたいなもので、その奥に何かがあるのかなと思ったら、もしかしたら何もないのかもしれないみたいな。典型的に言うと、もちろんこのお芝居で一番気持ち悪いのはディミートリアスですよね。最後、お前の心は一体どこにあるんだっていう。なんかそういう、立体的なのか表面的なのかよくわからないような空間っていうのが、僕は見ていてすごく興味深いなと思ったんですけども、その辺りはどうでしょうか?
鵜山 そうですね、さっきちょっとお話に出た僕の先輩の出口典雄さんっていう演出家が、もう亡くなったんですけど、シェイクスピアの芝居について「恋の栄冠と王冠を求めるときに、人間は狂態を演ずる」ということをおっしゃってますけど、その「王冠を求めて」、それこそ歴史劇の世界ですけど、それと「恋の栄冠を求めて」、これは『夏の夜の夢』の世界ですけど、それのなんて言うんですかね、身動きっていうのは相似形だ、みたいなお話なんですよね。おそらくそれってどういうことかなっていうと、恋の栄冠も、さっきこういう話も出てきたような気がするんですけど、王冠も、運動してるってことのメタファーって言うか、運動してることの仮の到達点であって、それ自体には意味がないんじゃないか、みたいな。だからシャドウとサブスタンスとかっていうことで言えば、どっちが実体なのかどっちがシャドウなのかわかんないですけど、目に見える王冠なんていうのはその背景にあるいろんな権力闘争をたとえてはいるんだけど、そもそもそれは目に見えないもんだし。人間の心のなかに起こってることを、それを実体っていって、これ元々は歴史劇発ですよね、トールボットっていう英雄がいて、『ヘンリー六世』の第1部で「自分の小さな体よりも自分の実体はもっと大きいんだ」みたいなことを占領するフランスで言う場面が出てくるわけだけど、そのように実体とシャドウで、シャドウがいっぱい出てきますよね。もちろん『マクベス』もそうだし、『夏の夜の夢』のエピローグは、we shadowsってパックの台詞で終わりの口上が始まりますけど、シャドウとサブスタンスってのはどういう関係なんですかね? つまり例えば現実とフィクションというようなことのどっちに当てはめるのがいいんでしょうかね? なんかそれがわかんなくて、なんでしたっけ蛇が自分の尾っぽを噛んでるような、ウロボロスというのがありますよね。だからシャドウとサブスタンスの関係ってのは一体どういうふうになってんだろうなっていうことがあって、そういうことが芝居と役者との関係とか、役者の演じてるキャラクターと役者との関係ということとすごく重なり合ってる気がして、そこをなんとか可視化できないかなっていうことをちょっと考えながらやってはいたんですけど、どうなんでしょうかね? 大丈夫だったんですか?
近藤 僕は舞台美術を含めてそういったことをすごく感じながら見ていました。あともう1つこの場面を選んだ理由は、この上演の見どころの1つでもありますが、妖精たちがおじさんだってことなんですけども、その辺の演出プランというのはどういうものだったんでしょうか?
鵜山 これは、こんな話ばっかりしてて申し訳ないんすけど、人頭を減らしたいっていうのがあって。それはつまりちょっとね、妖精だけで出てる人の舞台を見てると、なんかそんなこと考えなくてもいいんだけど、可哀想になっちゃうんですよね、演劇関係者としては。これだけだとちょっともったいないんじゃないかな、これだけじゃなくてお客さんに別の顔も覚えて帰っていただきたいという。
近藤 この公演では、アテネの職人たちと妖精たちが、1人2役で演じられているんですよね。
鵜山 これまったくくだらない話で申し訳ないすけど、ちょっと「ご自慢」があって。妖精の国のテーマソングで、「夢は夜ひらく」っていうやつの、ただ「夢は夜ひらく」を使っても面白くないので、これ元々マイナーの曲なんですけど、これをメジャーに編曲しまして、普通に聞いてもわからないけどニヤッとできるみたいな、そういう自己満足の典型みたいな話で恐縮なんですけど、そういうものを「夢は夜ひらく」だからいいじゃないかみたいな。そういうなんて言うんですかね。こういうことって演出って意外と多くて、なんか昔だとLPのレコードの「ジャケ買い」って言って、ジャケットのイメージで買っちゃって全然イメージが違う曲だったみたいなことがあるんですけど、それに近いことをやって。なんかある種あれですかね、そういう予定調和じゃない可能性みたいなっものを探してるのかもわかんないけどそんなことをやって。あの自慢したいと思って今、言ったんですけど、なんの自慢にもなりませんでした(笑)。
近藤 ありがとうございます(笑)。この場面を選んだのにはもう1つ理由があったんですけども、最後『オセロー』について伺う時間を取らないと、前の方に座ってる文学座の制作の方たちの視線が怖いので(笑)、ちょっと先を急ぎますけど、実はこの場面のタイテーニアの「おかげで風邪やリューマチなどが大流行。この天候異変で、季節までどうやらすっかり狂ってしまったらしい」という台詞ですが、僕は2020年の夏休みにステイホームでずっと家にいたときに、この台詞を精読していて、やっぱすごく引っかかったんですね。もちろんこれは妖精たちの喧嘩が人間界に影響を与えているっていうことを言ってるだけの台詞なんですけども、そのなかに病気が流行するっていうような言葉が出てきていて、やっぱりあの時って、なんかそれまでただ読み飛ばしていた台詞が妙にリアルに感じちゃうっていうことがあって、この台詞なんかは僕のなかではすごく引っかかったので、その台詞があるということで、この場面を選ばせていただいたっていうことです。
『夏の夜の夢』の話はちょっとここで終わりまして、次に、あのダークコメディ交互上映のところに話を飛ばしたいと思うんですけれども、実はこの交互上演の伏線になってるんじゃないのかなっていうふうに僕が勝手に思ってるものが――でも多分あんまり間違いじゃないだろうと思うものが、あります。この2つのお芝居、特に『終わりよければすべてよし』なんていうのは多分ほぼほぼ上演されない作品で、1つの劇場で全シェイクスピアをやるなんていうプロジェクトを立てない限りはあまり上演されないお芝居で、それが珍しく上演されたっていうことになります。その伏線となっているんじゃないのかと僕が思っているのが、『トロイラスとクレシダ』という作品です。これも上演されることが非常に稀なお芝居なんですが、鵜山さんの演出で、世田谷パブリックシアターと文学座と兵庫県立芸術文化センターの共同制作という形で2015年に上演されています。この『トロイラスとクレシダ』は、問題劇っていう名前で呼ばれてるお芝居でして、問題劇とはなんなのかっていうのはいろんな問題があって、あんまり最近は使わない呼び方なんですけれども、でも、いわゆるダークコメディである『尺には尺を』とか『終わりよければ』とセットになって語られることが多い芝居です。なおかつこのお芝居のときにちょうど僕の身の回りではクレシダを演じたソニンさんを絶賛する人がたくさんいたんですけれども、そのソニンさんがダークコメディ交互上演のときに、基本的に歴史劇シリーズの常連の座組の方が中心になっているなかで、『ヘンリー六世』以来キャストに加わってるっていうのも、やっぱりここからの流れがあるのかな、なんていうふうに思って見ていました。そのあたり、何か意図的なものがあったのか、それともそう言われてみたら何か繋がりがあるかもとか、何かお考えありますか?
鵜山 やっぱり問題劇ってやりたくなっちゃうんですよ。問題って言われてるからちょっと問題を解きたいみたいなのもあるし、それでやられてないっていうこともやっぱりやりやすい条件の1つですし、そういう意味でいろいろやりたくなっちゃうってことがあったのと、これは新国立劇場のプロデューサーが「ベッドトリックものの2つを並べてやりたい」っていうなんか変なことを言い出して、はいはいって言って、まあ何やっても面白いだろうと思ってこうやって2本立てになったんですけど。やってみると確かに面白いことは面白いんですけど、2本とも、普通に考えると必要な場面と必要じゃない場面、つまり筋立てにちゃんと乗っかってくるような場面と、それをちょっと無化しちゃうような場面がある。ペーローレスなんてのが出てくる場面ってのはもう代表的で、これ読んでるともうぞっとするんですけど、この場面で何をやれと言うんだ、ということがよくわからない。2本ともそういうコントラストというか、全然違うコントラストですけど、『ヘンリー四世』だったら宮廷と町場みたいなことがあるんですけれども、構造的には同じことが起こってるという仕掛けがあったりするんでしょうけど。『終わりよければすべてよし』や『尺には尺を』の場合はなんて言うかな、役に立つ登場人物と役に立たない登場人物、役に立つといってもそれはストーリーを語るっていう意味で役に立つというだけですからね。何かいろいろ、あのものは言いようなんだけど、どっちにしても、この無駄な場面、この無駄な登場人物たちは一体なんのためにいるんだろうって言うと、世界ってのはそういうもんだっていうことで腑に落ちちゃった節があるんですけど。例えば『尺には尺を』で刑務所の場面が出てきますけど、あの刑務所のなかがいやに華やかなんですよね。いろんな悪者のスターみたいな者がどうやらいるらしく、そこで行われていることが、現実のなんかそれこそ忌まわしい宮廷のなかでのアンジェロとイザベラのやり取りなんかと比べて、ずっと自由で、はじけてて。そういうなんて言うのかな、普段の生活のなかで目に見えてこないような人たちが存在する場所に目を配ってるっていうところが、この作家のすごいところなんじゃないかと思います。だからそういう意味でやっていていろいろ発見があったんですけど。
近藤 そういう意味で例えば『ヘンリー四世』の飲み屋の場面とかそういったものと多少やっぱりオーバーラップする部分があったりする?
鵜山 そうですね。ただ現実的に、この場面が何で役に立ってるのかわかんない場面を演出する、あるいは演じるのって結構大変で、だからやたら大声出せばいいっていうわけでもないし、それを面白おかしくやるっていうのはなかなかの難事だなと。しかも翻訳の問題がありますんでね、これ何が当時面白かったんだろうっていうことがなかなかわからないっていうことがあるので、そういう意味でもいろいろチャレンジングだったんですけど。
近藤 末廣先生のご講演との繋がりで、どうしてもこれだけはお聞きしておかなければならないと思うのですが、『尺には尺を』の幕切れにおける、公爵の申し出に対するイザベラの反応ですよね。僕が拝見した回も、やはり客席は笑ってたんですね、最後のイザベラのリアクションに対して。それは例えば鵜山さんのなかである程度想定内の観客の反応だったのか、それとも違ったのか。あるいはあそこで観客の笑いが起きる、あるいは起きた、ということに関して、何かコメントをいただけますか?
鵜山 直接それのことで言えば、もう法廷の場面で、クローディオとイザベラの場面で、笑いが来たときに役者がびっくりしてました、初日。こんなところで笑いが来ると思わなかったっていう感じなんですね。で、だんだんだんだん図に乗って確信犯的にやり始めるってのは役者のいいところでもあり悪いところでもあったりするんですけど。で、ラストの場面は、これもそうですね。何かある種のきっかけを与えてくれたのはむしろ客席で、それをちょっと拡大していったんです。
それでさっきお話伺ってて面白かったんですけど、なんて言うかな、これは解釈なんで何が正しくて正しくないってことじゃないと思うんですけど、公爵が何を成し遂げたのかっていうことについては、僕はやっぱり「ほぐした人」なんだって思っちゃうんですよね。いろんなこわばりをほぐした人だっていうふうに思っちゃうんで。そこに仮に善悪っていうことを当てはめてもいいんだけど、2元論みたいなことを当てはめてもいいんだけど、そもそも善悪というのは、Fair is foul and foul is fairというわけで。そんなことを言ってたら野球とか成り立たない(笑)。野球ばっかりじゃなくてあらゆる運動競技が成り立たないわけだけど、つまりルールとして善悪を設けるのはいいけども、芝居の面白さってのは善悪が入れ替わったり、善悪が引っ張り合ったりすることで変化するっていうことが一番の眼目だと思うんで。そういう意味では公爵の役割は、それをほぐしたところにあるんじゃないかな。そもそもfairとfoulが、あるいはto beとnot to beが回転するというか、それが人間を、あるいは宇宙を動かしていく動力になっているんじゃないか、みたいなことしか考えられないんですね。瞬間瞬間を切り取って、こっちは悪だ善だと言っちゃうことが悪くはないんだけど、プラスとマイナスがないと世界は動いていかないというか、あるいは少なくとも世界が面白くないという感覚なんで、それの入れ替わり、それのダイナミズムというか、それがそもそも何かシェイクスピアが言いたかったことなのかなということを考えつつやってたりしたんですけど。
近藤 末廣先生、以上でよろしいでしょうか? 何か追加でお伺いしなくて大丈夫ですか?
末廣 2014年に文学座で『尺には尺を』の公演をあうるすぽっとでなさっていたときも拝見したんですけれども、あのときは確か笑いが起こらなかったと思うんですね。それは劇場の違いなのか、演出の違いなのか、あるいは同じカンパニー、ずっと『ヘンリー六世』からキャスト、スタッフほぼ同じカンパニーでなさってるっていうことで環境が違ってたんですか? 何かそういうお考えがあったらちょっとそれぜひ伺いたいんですけれども。
鵜山 まったくそこは戦略がなかったんです。あったとすれば、なんて言えばいいのかな、もうひとつ突っ込んで、もうひとつ突っ込まれてっていう、そういうやり取りのキャッチボールの醍醐味みたいのが出てくれば出てくれば出てくるほど、本当は困った表情をしなきゃならないときに笑っちゃったりなんかするっていうふうな、もうひとつ表情の反転とか声の反転とかってのがあると、お客さんはどうも楽しいらしいんですよね。そこまで行けたか、行けなかったか。文学座を腐すと具合悪いんですよ、代表なんで(笑)。そのときの公演が良かったか悪かったかってことなんか簡単には言えないんだけど、さっき申し上げたみたいに、新国立劇場での上演では初日にマジックみたいなことが起きて、笑うはずがないところで笑ってくれたっていうのは、多分に役者の力量とかであって、僕の方の戦略でここで笑いを取りたいとかっていうふうに思って芝居を作ったことは全然ないので、そういう意味じゃ、もう行き当たりばったりみたいなことで、それはちょっと演出家呼ばわりは申し訳ないぐらいなんですけど。
近藤 ありがとうございます。そろそろ時間も迫ってきてるんですけども、ちょっと振り返ってみると、『夏の夜の夢』も、かなりそういう意味でいうとやはりダークコメディといえばダークコメディですよね。さっき言ったように最後は結局なんかどうも落ち着きが悪い。そういう意味で言うとシェイクスピアの喜劇って大体考えてみりゃそうだよなという気もしていて、鵜山さんにとってシェイクスピアの喜劇の世界って、なんかひとことで言えといわれても困るかもしれませんけれども、ちょっとひとことで何かをまとめていただくとどんな感じになりますかね?
鵜山 さっき結婚は悲劇だっていう話が出てましたけど、結婚はほぼ死ですよ(笑)。そこまでは面白かったんだけどここから先面白くなくなるよ、という。ただそこでなんて言うかメビウスの輪のように反転して、そこから悲劇が始まるとすれば、結婚も捨てたもんじゃないかなと。なんか変な言い方ですけど、そんな感じがします。
近藤 ありがとうございます。それでは最後に、まさに結婚が死であるお芝居の話に行きたいと思いますけれども、改めてまずは「なぜ今『オセロー』なのか?」みたいなことをお伺いできれば、あるいは『オセロー』に向けての演出プラン、もちろん話せる範囲で構わないんですけれども、これから『オセロー』をどんな感じで作っていこうと思っておられるのかということを、ちょっとお伺いできればと思います。
鵜山 これはもうひたすら言葉の力と言うか、『オセロー』を、若い学生たちと某演劇学校でちょっと読み合わせをしていたときに、これはすごいなと。なんて言うかな、足のツボを押したら心臓が止まるみたいな。そういう言葉の遠隔効果みたいなことが何か縦横にあって、ほかに難しいことはひょっとしたらいろいろあるのかもしれないですけど、その言葉の力っていうのは、さっき申し上げたいわゆる呪文的な宇宙の動きとシンクロするような人間の身体とかっていうことも含めてなんですけど、どうもこんなに過剰に、言葉がいろんなシチュエーションを作り出してしまって、誤解も含めて作り出してしまって、もちろんそれは何か嫉妬とか愛情とかっていうそういう情念みたいなものがそこに乗っかってるんだけど、これはとにかくやってみたい。言葉の呪力みたいなものですかね、これがどの程度発揮できるか、客席と共有できるか、ということで言えば、パフォーマンスとしてすごく面白い芝居になるんじゃないか、という割と単純なことです。
近藤 末廣先生のご講演のあとの質疑応答のなかでもちょっと出てきた話題が関係するかなと思うんですけども、今日皆さんのお手元にもある公演のチラシを見る限りでは、いわゆる黒塗り上演というのはやらない方向で考えてらっしゃるのかな、ということなんですけども。世界的には今はいわゆるカラーブラインド・キャスティングという形で、登場人物の肌の色と俳優の肌の色を結びつけないで行う上演が主流になってきていますし、いわゆる黒塗りっていうのはいろいろと問題視されることが多く、たとえばアイドルが黒塗りしてバッシングされたりしている一方で、大きな劇場で平然と『オセロー』の黒塗り上演がいまだに行われているというところがちょっとすごくアンバランスだなと思っていたんですけども、今回の上演はそういう意味で言うと、いわゆる黒塗りにはしないということなんでしょうか?
鵜山 そうですね。最初からそう思ってないんですけど。何くれ言葉で言ってるもんですから。自分はデンマークの王子ハムレットだって言って、それだけでお客さんが信じてくれるって世界ですから。デンマークの王子でもなんでもないのに、日本人が日本語で喋ってるのに、デンマークの王子ですと言えば、ああそうですかと成立する世界だから、基本的に必ずしも黒く塗らなきゃならないっていうことは考えてないですけど、それ結構曖昧で、まったく黒くしないわけにもいかないんじゃないかみたいな気持ちがどっかにあったりするんですよね。本当に柔弱で、今のところ申し訳ないんですけど。役者の横田栄司君も、「日焼けサロン行こうか」っていう話になって、その辺はだから何がしか。もうそういう風潮というか共有ができてるから、無理にそこを黒く塗ってやるからにはそれだけの何か別の意味での何か表現をそこで立ち上げなくちゃいけない。それをやって悪いっていうふうに思ってないんですけど、なまじっか黒人だから黒くしようっていうことじゃなくて、っていうぐらいのバイアスは入っているんですけど。
近藤 あとは作品のテーマみたいなことでいうと、これはこのチラシには載ってないんですけどもいろんなメディアなんかで鵜山さんがメッセージを出されているのを拝読すると、やはりそこでもコロナの経験みたいなことを語られていたように記憶しています。そのあたりのことをちょっと伺えますでしょうか?
鵜山 さっきちょっと申し上げた、言葉の持ってる力ですけども、何か目に見えないものが届く、目に見えないものを見せるというのが芝居、あるいはアートに共通する、なんて言うか、コミュニケーションの役割、ツールの役割で、それが『オセロー』の場合にもやっぱり充満してると思うんですね。だから、ことさらそうですね、なんで『オセロー』になったのかな? えーとね、やっぱりこういう役者がいるっていう、今こういう役者と一緒にやれると。「おかげさま」でやっている仕事なんで、本当に。作者ありき、役者ありき、劇場ありき、制作ありき、ということで、なにしろ背後霊なものですから(笑)、「理屈はあとでくっつけりゃいいや」みたいなところがあって。なんか今日は駄目な話ばっかりで(笑)。
近藤 とんでもないです。そういうことで言うと、これまでいろいろなお立場でお仕事をされてきていて、劇団で作るお芝居の場合、新国立劇場みたいなところで、しかも芸術監督というお立場で作品を作る場合、まったく外部のプロデュース公演であったり、あるいは外部の劇団に頼まれて演出をする場合などがあったと思うんですけども、そのときになんかこう仕事のやり方って変わってきたりするものなんですか?
鵜山 どこへ行っても全体のことは知らんぷりしてやってるんで。なんか稽古場で芝居作ってればいいやみたいなところがあって。「お客さんが入ろうが入らなかろうが僕知らない」っていうようなところがあったりするんで危険なんですけど、代表になるとそうもいかないんで(笑)。でも本当の実感を言うと、あんまりお客さんが入ってる劇場って気分良くないんですよね。なんか、みんなが賛成してるっていうのは非常に具合が悪いんじゃないかっていう。賛成してるから劇場が満席になるとは限らないんですけどね。だから絶対っていうのはあり得ないっていうふうに思っているんで。どうやらその人間の死亡率ってのは100%だってどなたかおっしゃってましたけど、これすら信じられないようなところが。本当にそうなんですかね? 絶対に死ぬっていう?
近藤 多分、多分、絶対だと思うんですけど(笑)。さて、今の代表の言葉に白目を剥いているであろう文学座の制作さんから、公演のご案内があるとのことなのでお願いします。
文学座制作による告知
近藤 多分シェイクスピア祭始まって以来のイベント告知だと思いますが(笑)、文学座さんは日本シェイクスピア協会の賛助会員にもなっていただいていますし、今回も代表にシェイクスピア祭にご登壇いただくという形でご協力いただいているということで、ご理解ください。この『オセロー』が大変素晴らしい舞台になることは間違いないと思います。僕も大変楽しみにしておりますので、お越しいただければと思います。最後にまとめで、もう何をしゃべれというのだと叱られそうな気もしますが、『オセロー』に関して、こんな感じなので是非ご来場くださいみたいな言葉を、代表の方からいただければと思います。
鵜山 見たこともないような世界が開けると思うんです。すいませんよろしくお願いいたします。
近藤 それではちょっと早いですけれども、ご質問とかをいただくにはちょっと時間が短いかなという感じもありますので、今日のトークはこのあたりで終了させていただきたいと思います。いろんなお話を伺えて本当に楽しい時間だったなと思います。改めてご登壇くださいました鵜山仁さんに拍手をお願いいたします。